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幸福のかたち【日記】

2019/03/25

久しぶりの投稿

なんというか、自分の外側に向けた言葉が出てこないのである。そしてなにより、その叫びのような行為を行う欲求がない。
ある意味精神に不具合が起きたと言えるかもしれないが、不具合ではないかもしれない。

うまく言えないが、幸福を感じる能力を身に着けたから、というのが理由と言えるか。確証はない。が、そうなのだろうといまは思っている。

なんのこっちゃと思われるが、毎日のささいなひとつひとつに心が充足し、完結してしまうので、吐き出したいという行為に至らないのだと思う。

以前は、心の中で大きく口をあけた空洞のようなものを埋めるため、本や映像作品などに没入し、脳内に生じたものを言語化することでなんとか日々を送ることができていた。

子供の頃、実家においてあった誰かのエッセイに「感動とは、感じて動くこと」とあったのがこの年まで頭から離れることがない。心を揺さぶられたならば、それを形にすることでようやく「感動」というプロセスが完了すると、強い思い込みがある。

それゆえその感動プロセスを怠っている現状を省みると、十代のころの自分に後ろ指を指されているような気がしたので、せめて言い訳のひとつやふたつぐらい綴っておこうと思い至ったのだ。

「幸福を感じる能力」とは、人によってはなにを大げさなと思われるかもしれないが、とても重要なことだ。

この能力に支障をきたしていると、なにをやってもしていなくても、決して満たされることはなく、常に精神が落ち着かず苦しい。心の中の空洞に飲み込まれてしまうのだ。

幸福とは目に見えないものであり、どこか遠くに驚くほど巨大なかたちをして存在するのだ!だから現状を逸脱して其処にたどり着かなくては!と思い続けている人はずっと苦しい。

目に見えないはずの幸福は案外近くにあるものだけれど、それにちゃんと目を向けることができるのはスゴイ能力があるからだ。つまり能力者だ。そう思うのだ。

以前とは打って変わって社会の中にグイグイと喰い込んで何かをなそうとするのをやめ、できるだけ社会とのつながりを粗にしようと志向するようになったことが大きいとは思うがなんでそう思うようになったんだっけ。それはまたあらためて考察しよう。

閑話休題。

年をとった、丸くなった、いろいろな言い方はあると思うが、わたしは「人間になった」という言葉がいちばんしっくりくる。わたしにとっての幸福のかたちを知ることで、わたしは人間になったのだ。

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Photo by Tim Marshall on Unsplash

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