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書籍の内容

安倍元首相と教団、本当の関係。
メディアが統一教会と政治家の関係をタブーとするなか、教団と政治家の圧力に屈せずただひとり、問題を追及しつづけてきたジャーナリストがすべてを記録した衝撃レポート、緊急刊行!

読書感想

何の誇張もない淡々とした取材ノートのような一冊。

その内容のほとんどが、いつ、どこで、どの政治家が統一教会と接点をもったか、を直接取材して周った記録の列挙である。

個別のケースに感情が大きく動かされることは少ない。

だが、国民の生命財産を守ることが使命であるはずの議員を目指すために、国民の生命財産を脅かす組織と協力関係にある、その事実が168人分もある。

これを前にすると否が応でもさまざまな考えや思いが頭をめぐった。

そこに、関心を呼び覚ますという点において本書の大きな価値を感じる。

統一教会(以降「教団」と記す)は日本を含む7カ国で「国教」となることを目指しているという。

政治に入り込み、権力の庇護のもと人びとの暮らしを破壊するようなカルト教団がすぐそこにある。この事実は恐怖でしかない。

とはいえ教団に限らず、権力の威を借り、非合法にあるいは反倫理的に目的を追求する団体はこの先いくらでも現れるだろう。

国民を守るために行使するための権力が、特定の個人や組織にいいように使われるてしまう現行の選挙システムは大きな問題があるように思う。

そしてなによりも最大の問題は「無関心」である、と痛感する。

マスメディアもそうだし、わたしを含め国民の多くは山上容疑者が弾丸を放ったその時まで、まったくと言っていいほど無関心だったはず。

その間に、教団は政界へと深く食い込み、活動の手を広げていたのだ。

より多くの声を法に反映させるための民主主義において、偏った思想や支配独占を試みる者たちをどのように防ぐかは非常に難しい。

難しいがゆえに向き合い続けなければならないし、そのためには無関心であることが最も罪であると思う次第。

本書を読む動機

以降は個人的な話しであり、書籍の内容に直接関係は無いので悪しからず。

6月の参議院選挙中に起きた銃撃事件はかなり衝撃的であった。

その後、さまざまな情報が報道されるなか、山上容疑者の家庭環境を知り、事件に対するわたしの関心は一気に高まることとなった。

「他人ごとではない」と感じたからだ。


私の母は良く言えば教育熱心、当事者の私からすれば毒親だった。

心身ともに追い込む教育は相当なものだった。

だが小学生の高学年にもなるとわたしの体もそれなりに大きくなり知恵も回りだす。

身体的な暴力を受けることが無くなったことをさいわいに、適当な嘘と言い訳を駆使し、親の毒牙から逃れることに成功した。

そしてその矛先は妹へと向かった。

バカがつくほど真面目な性格の妹は母の餌食となった。

そして小学校卒業を前に壊れた。

いくつもの精神疾患を抱えるに至ったのだ。

母は問題が起こるとその原因を自分の外に探そうとする。

論理よりも運命を信じる。

そんな人間にとって宗教は悲しいほど相性がいい。

先祖が悪かった、悪いオーラが出てる、信心が足りないなどなど。

どう見ても怪しいお祓いに付き合わされたこともあるし、後日妹から聞いた話で、朝、目が覚めたら知らないおばさんたちに囲まれ見おろされていたなんてこともあった。

母は怪しい宗教にいくつも手を出した。

小さな宗教団体が相手であっても出費はそれなりにかさみ、父と母はよく金のことで口論するようになった。

かなり地獄の様相を呈することとなった家族関係であったが、数年ののち、宗教関連とはいっさい手を切ることで決着しなんとか破滅は逃れることができた。

だが、今回の山上容疑者の境遇を知ったいまにして思うのは、母が手当たりしだいに手を出したあの中に、もしも統一教会がいたらどうなっていたのか。

想像するだけでも恐ろしい。

年齢も近い山上容疑者は別の世界線のわたしだったかもしれないとの想像から逃れることができないでいる。

もっともわたしは彼のような頭脳や器用さは持ち合わせていないので支離滅裂な何かで終わっていたかもしれない。

長くなったが、他人ごととは思えず、目をそらしてはいけないとの思いで本書を手にとった。

政治と教団の関係が報道のほとんどを占めるのはニュースバリューとして仕方が無いのかもしれない。

だが、無名の数多くある犠牲者たちにもっと関心が集まり、われわれ一人ひとりが無関心ではいられないと思える状況をわたしは強く望む。

著者について

滋賀県出身。日本大学経済学部卒業。日大入学後に上京、25歳頃まで音楽活動をしており、その後は不動産関連会社や児童館などに勤務した。2002年頃、報道番組で世界平和統一家庭連合(旧統一教会)による「偽装勧誘」の実態を知ったことをきっかけに、勧誘を阻止する活動を単身開始。新宿や渋谷で行われていた偽装勧誘の現場に割って入ったり、教団施設に乗り込んで勧誘を阻止するといった活動を続けるうちに、信者の心情や被害者を生む構造に関心を抱き、本格的にカルト問題に取り組むようになった。

Twitter:@cult_and_fraud

『自民党の統一教会汚染 追跡3000日』 鈴木エイト 【読書感想とあらすじ】

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会場「浅草公会堂」ロビー踊り場にて

「Dr.ハインリッヒ 単独ライブ」体験以前

お笑いコンビ「Dr.ハインリッヒ」の単独ライブを体験してきた。

Dr.ハインリッヒ(ドクターハインリッヒ)は、吉本興業大阪本部に所属する一卵性双生児の姉妹からなる日本のお笑いコンビ。京都府出身。

Dr.ハインリッヒについては以前、M-1グランプリに関連して以下のような記事を書いた。

「生まれてすいませんへのアンチテーゼやないか」 Dr.ハインリッヒ(ドクターハインリッヒ)【M1グランプリ応援記事】 | neputa note

お笑い、特に漫才が好きです。そして年末と言えば「M-1グランプリ」が開催されますね。これを書いている2020年11月22日現在は、準々決勝が終わり、準決勝進出25組が決定しています。毎年楽しく視聴さ

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その存在を知り、未だ体験したことのないDr.ハインリッヒの漫才に魅了されたのは3年ほど前でしかない。

Dr.ハインリッヒのYoutubeチャンネルを最初の動画から順番に視聴し「なぜ、もっと早くに知ることができなかったのか?」「大阪、あるいは関西圏に住んでいればどうだったか?」など、はげしい後悔にとらわれたりもした。

Dr.ハインリッヒチャンネル - YouTube

Dr.ハインリッヒの公式チャンネルです。ネタ等アップしていきます。よろしくお願いします。

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そして、いつしか目の前でDr.ハインリッヒの漫才を見てみたいと強く願うようになった。

だが大きな波動の波に乗りはじめたDr.ハインリッヒの人気は急上昇。

チケット抽選は厳しいものとなった。

この春、待ちに待った東京単独!と勢いよく抽選に申し込んだもののあえなく惨敗。

しかし、お二人にとってはもちろんのこと、関係者や席を確保したファンの方々にとってどれほど残念であったか、このライブは延期となってしまう。

そして延期の結果、わたしは再販で当選する。

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前回当選し今回落選の方には申し訳なさと、抑えきれない喜びの気持ち。

わたしは業が深く運命は非情だ。

この延期を乗りこえ開催に漕ぎつけてくださった皆様に感謝しつつ見れない人のぶんまで楽しんで来ようと思った次第。

「Dr.ハインリッヒ 単独ライブ」体験以降

さあ、「Dr.ハインリッヒ 単独ライブ in 東京 『原液、形而上学』」である。

単独ライブなど長丁場であれば、ゲストを呼んだり企画をやったりで時間をつなくライブも多々ある昨今。

漫才のみで挑む90分一本勝負。

最低限の演出、MCでゴリゴリ演奏のみで疾走した「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」のライブを思い出す。

ネタの詳細などは書かないほうがいいのだろう。たぶん。

配信もないこのライブ、あの空間あの瞬間のできごとは幸福な記憶として心にとめおくのが良いような気がする。

会場で流れた楽曲については構成作家ヨシピーさんこと吉岡様よりTwitterで公開されていたので引用させていただく。

客入れ
1.パール / THE YELLOW MONKEY
2.MY WINDING ROAD / THE YELLOW MONKEY
3.ホルン協奏曲 Op.8 第3楽章
4.ピンクパンサーのテーマ

出囃子
1.サイキック No.9 / THE YELLOW MONKEY
2.デッドマンズ・ギャラクシー・デイズ / THEE MICHELLE GUN ELEPHANT
3.SAILINGER / Blankey Jet City
4.ジプシー・サンディー / THEE MICHELLE GUN ELEPHANT
5.アイネ・クライネ・ナハトムジーク / モーツァルト
6.ヘッドライトのわくのとれかたがいかしている車 / Blankey Jet City
7.星空のディスタンス / THE ALFEE
8.SPAGHETTI HAIR / Blankey Jet City
9.聖なる海とサンシャイン / THE YELLOW MONKEY
10.ひとりぼっちのPretender / THE ALFEE
11.いとしのレイラ / エリック・クラプトン

エンディング・客出し
エレクトリック・サーカス / THEE MICHELLE GUN ELEPHANT

あと「Dr.HR」のロゴでせり上がってきたとき、オープニングにして感無量だったことは記しておきたい。

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エンディングの写真どうぞタイムにて(いいカメラほしい)

以降はライブを体験して沸き起こった感情や思考したことなどを記載するにとどめたい。

Dr.ハインリッヒの魅力について

今回、パートナーと共に浅草公会堂へと向かった。

会場に集まる1000人の人びとを目前にし、パートナーは「それぞれがそれぞれの感性でおもしろさを見出しているんだろう」といった内容のことを話していた。

そういえば、わたしはDr.ハインリッヒの何処を、何をおもしろい、あるいは魅力と感じているのだろう。

ライブ中はすっかり忘れていた問いだったが、帰りの電車のなかでさまざまな思いが頭をめぐり始めた。

今回のライブでは開演前、終演後の影ナレ(諸注意などのアナウンス)を幸(みゆき)さんが読みあげていた。(声の区別はついているつもりだが、彩(あや)さんだったらゴメンナサイ)

影ナレはいわゆる「インフォメーション」であり、おもしろ要素はゼロのはず。

だが、この影ナレがやたらおもしろい。聞けば聞くほど可笑しみが込み上げてくる。

これまでの人生で一度も使ったことのない脳細胞が刺激を受けたような未知なるおもしろさだ。

動画でネタやトークを見ていただきたいが、お二人の声やイントネーションは非常に似ている。

Dr.ハインリッヒチャンネル - YouTube

Dr.ハインリッヒの公式チャンネルです。ネタ等アップしていきます。よろしくお願いします。

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これが示すことはつまり、わたしにとって、「Dr.ハインリッヒは、話している時点でもうすでにおもしろい」という事実だ。

Dr.ハインリッヒの漫才がなぜこんなにも好きなのか、おもしろいかについても色々思い当たった。

Dr.ハインリッヒの漫才が好きな理由1

個人的に、古今東西の演芸を含む「芸術」において、「笑い」をつくり出すことがもっとも難しいと思っている。

Dr.ハインリッヒは漫才師であり、漫才師とは話術とある程度の動作・所作でもって笑いを引き起こす芸。

「容姿振る舞いに対するイジリ」「自虐」「下ネタ」「はたくなど軽度な打撃」などは、笑いにつながりやすい要素としてこれまで多用されてきた。

がしかし、昨今ようやく広がりはじめたコンプラの波がお笑いの世界にも押し寄せてきた。

表現が狭くなる、笑いがとれないなどなど演者側からの悲鳴も耳にする。

だが、Dr.ハインリッヒは初めからそんなものは必要としていなかった。

自分たちの世界を追求し芸を磨き表現の幅を広げ、2022年10月7日の浅草公会堂1000人を笑いの渦で包んでみせた。

お笑いにおける傷つける傷つけない論争、漫才か漫才じゃない論争などM-1グランプリを機に毎年なにかしら話題が起こる。

そんな騒がしい世間をよそに、はるか高みをお二人がさわやかな風とともに駆け抜けていっているようにも感じた。

今年もM-1後になにかと話題が巻き起こるかもしれない。

だがDr.ハインリッヒはもうその次元にいない。

これはとんでもなくスゴイことだと思うのだ。

Dr.ハインリッヒの漫才が好きな理由2

結構な確率で、最初のワードで「?」となることがある。

一見なんの関連性のないワードが続いたり、会話の脈絡が見えなかったりするネタがある。

それらがあるタイミングで、キュッと一本の糸でつながる。

この瞬間、わたしはうつくしい円環が結ばれたような感覚を受ける。

わたしは、笑いの向こう側に恍惚とした光があることをDr.ハインリッヒの漫才で知った。

Dr.ハインリッヒの漫才が好きな理由3

Dr.ハインリッヒが扱うワードもまた良き。

以前、漫才中に登場するワードでつくられた展示映像があるので参考まで。

本や辞書で見た程度、およそ人が発話するのを聞いたことがないワード、それを、あのお二人の声をとおして初めて耳にする。

その瞬間、わたしの脳は誤作動を起こしているのだと思う。

これはどういう感情であるかうまい表現が見つからない。快感であり、おかしさが込みあげてくるのだ。

また漫才以外で聞いたことのある伝統や歴史の詰まったワードが予測を裏切るタイミングで放り込まれる瞬間も大好きだ。

またお笑いにおいて思想を帯びたワードは避けられる、あるいは「スカし」の対象となりがちと個人的に感じている。

だがDr.ハインリッヒの漫才においては異なる。

多くは幸さんの場合が多いが、強めのワードをドスンッ!と発すると、会場はドカンッ!と爆笑の渦。

その瞬間にわたしは時代に風穴があく爽快感のようなものを感じる。

書けば書くほどオタじみてくるのでこれぐらいで自制しよう。

さいごに

会場にいた1000の人たち、日本中にいるファンの方々、みなそれぞれの感性でDr.ハインリッヒの漫才やトークを堪能しているのだろうな。

偶然この記事を読んでしまった方もぜひDr.ハインリッヒの世界の扉を開いてみてはいかがだろうか。

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Dr.ハインリッヒに関するリンク

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音声配信

Artistspoken(アーティストスポークン)

Dr.ハインリッヒ 単独ライブ 『原液、形而上学』 を体験してのこと 【日記】

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『くらしのアナキズム』を読むキッカケ

わたしのようなバカでのほほんと生きているようなヤツでも、長いこと人間をやっていると思うのである。

人生とは何か、社会とは何か、なぜこんなにも生きづらいそうな人が溢れているのか、と。

しかし無い知性をいくらふり絞っても出てくるのは「人類は生まれながらにしてドMだから?」など身もふたもない答えぐらいだ。

あるていど知識があれば自ら頭をひねるのも価値あること

だが空っぽのやつがまずやるべきは知識を入れることだ。

賢者たちに学ぼう。

立て続けに「テロリズム」「リアリズム」「アナキズム」と、「ズム」な本を読みあさった

  • 『令和元年のテロリズム』(磯部 涼)
  • 『資本主義リアリズム』(マーク フィッシャー)
  • 『くらしのアナキズム』(松村圭一郎)

『令和元年のテロリズム』は先の参院選で起きた銃撃事件がキッカケで、生きづらさを抱えた人が行きつく究極なひとつのカタチとしてタイミングもあり目を通した。

『資本主義リアリズム』は、自由競争社会民衆主義国家「日本」で暮らすわたしたちが当りまえに置かれている「資本主義」とは果たして何なのか、あらためて確かめようと読んでみた。

そして最後が『くらしのアナキズム』。

わたしが愛読しているブログ「関内関外日記」では、アナキズム本がよく取り上げられているので出どころはここかと先ほど検索してみたら見つからず。

関内関外日記

横浜市中区の底辺労働者の日記でございます。

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ちなみにこのブログは文章表現がとても素晴らしい。どんなテーマでも読んでいて楽しいから全世界が日本語おぼえて読めばいいと思っている。

話しをもどす。

どこで見つけたのかすっかり失念してしまったよ『暮らしのアナキズム』。

だがしかし、気になった本を欠かすことなく「読書メーター」に登録していたわたしに死角なし。

コロナ、ロシア、マザームーンと続いてモヤモヤが溜まりに溜まったこのタイミング。

「読みたい本リスト」にこの本はいた。

唐突に根拠なく言いたくなった名言を引用する。

「点と点がつながった」というやつだ。

『くらしのアナキズム』の概要

この本で考える「アナキズム」は達成すべき目標ではない。むしろ、この無力で無能な国家のもとで、どのように自分たちの手で生活を立てなおし、下から「公共」をつくりなおしていくか。「くらし」と「アナキズム」を結びつけることは、その知恵を手にするための出発点だ。
――本書 13ページより引用

かの有名なパンクバンドの楽曲『Anarchy in the UK』の影響か、鋲だらけの皮ジャケット、モヒカン姿で「Fワード」を連呼するさまを連想したのはわたしだけではないだろう。

「体制をぶっ壊せ」の話しではない。

上記引用にあるとおり、あらたな「公共」、つまり今より生きやすいと私たちが感じられる環境を「アナキズム」というツールを用いて実現できないか、という提言である。

わたしたちの社会を構成する「民主主義」とはそもそもどんなものであったか。

そして実際の社会システムと、本来の民主主義はいかに大きな隔たりがあるのか。

歴史や史実は一部の人間たちが記したものである。

しかし、実際には歴史の外側に広がる世界の方がはるかに広く、多くの人たちの暮らしがある。

国家の形は時代の世ってコロコロ変わる。

一方、変わらずに現在にいたるまで続いてきた先人たちの営みがある。

著者の実体験や民俗学により、本来的な意味での民主主義を実践している集団が世界各地に存在することを著者は明らかにする。

彼ら彼女らの知恵、そしてさまざまな哲学者、社会学者たちが語る言葉から、国家を必要としない「アナキズム」という新しい社会の在り方、生き方を学べる一冊。

『くらしのアナキズム』引用文献 著者一覧

本書は著者による実体験をつづったコラムや考察を軸にさまざまな賢人たちの研究や思想によって構成されている。

以降、説明なく記載する人物名はこちらからの引用となる。

  • 網野善彦(歴史家)
  • 猪瀬浩平(文化人類学者)
  • イヴァン・イリイチ(オーストリアの哲学者)
  • マックス・ヴェーバー(ドイツの政治学者、社会学者)
  • 掛谷誠(生体人類学、アフリカ農耕民研究)
  • カルロス・カスタネダ(アメリカの作家・人類学者)
  • 河田恵昭(災害分野における研究者)
  • きだみのる(小説家、翻訳家)
  • ピエール・クラストル(フランスの人類学者、民族学者)
  • デヴィッド・グレーバー(アメリカの人類学者)
  • 佐川徹(アフリカ地域研究者)
  • マーシャル・サーリンズ(アメリカの文化人類学者)
  • デボラ・ジニス(ブラジルの文化人類学者)
  • ジェームズ・C・スコット(アメリカの政治学者、人類学者)
  • ミシェル・ド・セルトー(フランスの歴史家、社会理論家、哲学者)
  • オードリー・タン(台湾の政治家、プログラマ)
  • 鶴見俊輔(思想家)
  • フランシス・B・ニャムンジョ(南アフリカの人類学者)
  • 花森安治(編集者・グラフィックデザイナー・ジャーナリスト・コピーライター)
  • ひろたまさき(思想史学者)
  • 坂本忠次(経済学者)
  • ミシェル・フーコー(フランスの哲学者、思想史家思想史家、作家、政治活動家、文芸評論家)
  • 藤野裕子(歴史学者)
  • 藤原辰史(農業史研究)
  • フェルナン・ブローデル(フランスの歴史家)
  • トマス・ホッブス(イングランドの哲学者)
  • 松島健(文化人類学者)
  • ブロニスワフ・マリノフスキ(イギリスの人類学者)
  • 宮本常一(民俗学者・農村指導者・社会教育家)
  • マルセル・モース(フランスの社会学者・文化人類学者)
  • 柳田国男(民俗学者)
  • オードリー・I・リチャーズ(イギリスの社会人類学者)
  • クロード・レヴィ=ストロース(フランスの社会人類学者)

感想と引用

ここからは細かく内容を引用しながらの個人的な備忘録的内容となる。

どんな本であるか、は上記概要に記したとおり。

つたない説明で恐縮だが、もし興味を持っていただけた方がいたら、この後のさらにつたない駄文はスルーし、ぜひとも一読してみてほしい。

この時代この瞬間に出会えてよかった本

あまりにインパクト大、目からウロコ、四回転半のかかと落としを喰らったような一冊だった。

日頃わたしが心がけるスタンスとしては「こころの中指、つねに真っ直ぐ」といったもの。

なんとかヒトの形をたもち振る舞おうと努力はしている。

だが大抵のモノ・コトに対し「しゃらくさい」と感じてしまう。

デカいもの強いものに前を遮られるとアドレナリンがドッと湧いてしまう。

こんなわたしは読書対象に「一定の角度」を求めてしまう。

ふと思いだしたが以前読んだ「トーマス・セドラチェク」も良かった。

チェコの経済学者である彼は西の資本主義信仰をどこかシニカルに見ている。

そんな人物による分析はわたしに新たな視点をもたらしてくれた。

『善と悪の経済学』 トーマス・セドラチェク ~東欧の経済学者が現代資本主義を斬る~ 【読書感想】 | neputa note

皆さん、資本主義の世界をエンジョイしていますか?一定のルールの元、皆が自由に経済活動することで社会が発展し豊かさを手にする人が増える。人類による優れた発明のひとつ「資本主義」。資本主義、大好きですかー

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そして『くらしのアナキズム』である。

わたしは可能なかぎり社会とのつながりを最小限に抑えたいと考え日々を過ごしている。

しかしいくら脳内で思考を続けても、実際に心身をそこから解放することは難しい。

いまこの瞬間、違和感を感じたり、生きづらさを抱える人たちよ。

本書はこのクソったれな世界をサバイブするための良きバイブル。

どのように思考し、行動し、生きればよいか、数多くのヒントを提示してくれる。

そして何より、未来に絶望以外の選択肢、つまり生きようとする希望をもたらしてくれるはずだ。

ふつうの人びとから学ぶ

人類学の視点から国家について考える。そこで手がかりにするのが、国家なき状態を目指したアナキズムだ。ぼくらがいまどんな世界を生きているのか、それを根底から問いなおす試みでもある。
――本書 10ページより引用

本書を通じて既成概念をおおきく見直すことになるだろう。

少なくともわたしはそうだった。

義務教育のころからわたしたちが学んできた「先人たち」とは歴史書を通じて伝えられたもの。

しかし歴史・史実というものは、ごく一部の特定の者たちの手によって記されたものであり、彼らは権力争いにより時代ごとにそっくり入れ替わってしまう。

一方で日々を賢明に生きる市井の人びとが世界各地に存在したし存在する。

数で言えば圧倒的多数なのが後者である。

そう、手本とすべきは歴史や史実ではなく、彼ら彼女らではないか。

いろんな時代の世界のさまざまな場で、名もなき人々が国家や支配権力と向きあい、自分たちの暮らしを守ってきた。本書では、そんな無名のアナキストたちの営みを人類学の視点からすくいとっていこうと思う。「くらしのアナキスト」というタイトルには、そんな思いをこめた。
――本書 11ページより引用

21世紀における国家への抗い方

かつて新たな世界の秩序を作るには争うしかなかった。

だが今は多くの賢人たちによる知恵や知識がある。

そして手段・手法を集約し共有するすべもある。

二十一世紀のアナキストは政府の転覆を謀る必要はない。自助をかかげ、自粛による政府のもとで、ぼくらは現にアナキストとして生きている。
――本書 12ページより引用

そして、わたしたちが見るべき、というよりも感じるべきものは何か。

インディアンの呪術師である「ドン・ファン」はこう述べた。

ドン・ファンは「現実をこえたところから現実をみる方法」をカスタネダに教えた。まず彼は家のまえのベランダのどこに座るべきか、身体が疲れないような適切な場所をみつけるよう求めた。人が座ったり、居たりする場所は、どこでもいいわけではない。ベランダというかぎられた空間にも、その人が自然に幸福で力強く感じる場所が一カ所だけある。ドン・ファンはそう言って、「それをはっきりさせるには何日かかかるだろうが、もしこの問題が解けないならわたしに言うことはなにもないから帰った方がよいだろう」と厳しく忠告した(『呪術師と私、ドン・ファンの教え』三三頁)。
――本書 25ページより引用

わたしなどは頭でっかちに思考でもって解決を図ろうとしてしまう。

しかし、目指すべきモノはわたしの身体が、感覚器官が既に知っている。

それを蔑ろにして思考のみに偏ってしまってはいけないとわたしは理解した。

このことは、本書を読み終える最後まで頭の片隅にあった。

結局は能率的な軍隊の形式にゆきつくような近代化に対抗するためには、その近代化から派生した人道主義的な抽象観念をもって対抗するのでは足りない。国家のになう近代に全体としてむきあうような別の場所にたつことが、持久力ある抵抗のために必要である。二十世紀に入ってからうまれた全体主義国家体制のうまれる以前の人間の伝統から、われわれはまなびなおすという道を、新しくさがしだそうという努力が試みられていい。(『身ぶりとしての抵抗』29頁)
――本書 26ページより引用

産業革命以降か、大航海時代からか、正確なポイントはわからない。

だが現在の世界のカタチはここ数百年のあいだに生まれたものが、それ以前の文化、慣習、価値観を塗り替えていったものがほとんどではないか。

それ以前がすべて正しかったとは思わないが今が正しいとも思わない。

だから今日まで続いた長き伝統に目を向けてみるのは大いに価値がありそうだ。

先に学んだとおり、ポイントは歴史や史実の外側にあるところだ。

いつ「国家」がはじまったのか

先に書いたトーマスウ・セドラチェクの著作や『サピエンス全史』にも書かれていたが、いつから人間は管理されるようになったのか。

アメリカの政治人類学者ジェームズ・スコット 家畜に餌や水を与えて野獣から保護し、土地を耕し雑草を抜いて穀物の生育リズムに生活を合わせたのは、人間が「家畜化」されたのも同然だった
――本書 28ページより引用

生存に欠かすことができない食料の安定と、人間の自由はトレードオフの関係にある。

寝ながらにして食料を生むことができないわたしたちは、自然界のサイクルの奴隷にならざるを得ない。

ここからどのように「国家」につながるか。

メソポタミア地域で最初期の国家が誕生したのは紀元前三三〇〇年頃だと考えられている。〜 この初期国家の成立と文字が歴史上はじめて登場した時代は、ぴったり一致している。スコットは、それを「とにかく数値的な記録管理に関する体系的な技術がなければ、最初期の国家ですら想像できない」(同一三一頁)と表現している。
――本書 30ページより引用

食料の安定から国家というカタチへのグラーデーションは理屈では分かる。

『サピエンス全史』にも書かれていたが、もう少し「なるほど」と思う何かをまたの機会に読んでみたい。

しかし、「文字が国家をつくる」とすると、国家が不要であれば文字はいらなかったか。

アイヌは文字を持たない民族であることを例にとればその論は成立するようにも思える。

実際に国家が消滅し文字の使用が縮小したり別のものに置きかわった例もあるという。

古代ギリシアでは、紀元前一二〇〇−八〇〇年ごろ、都市国家が分裂したあと、ふたたび読み書きが登場したときには古い形態の線文字Bではなく、フェニキア人から借用したまったくあらたな書字法になっていた。
――本書 33ページより引用

なにはともあれ、

国家は、人びとから富と労力を吸いとる機械として誕生した。当然、人びとからしてみれば、そこからいかに逃れて生きるかが生存を左右する問題だった。
――本書 33ページより引用

といわけだ。国家不要論を掲げるのにこれだけでも十分な理由になりそうなものだ。

国家の外の人びと

国家から逃れた人びとはどこへ行ったのか? 多くは国家の支配がおよびにくい険しい山奥へと逃れた。スコットの本のタイトルになっている「ゾミア」とは、そんな広大な非国家空間がひろがる中国南部から東南アジア大陸部の山岳地帯のことだ。
――本書 36ページより引用

私たちが学ぶ歴史は国家の中心から描かれた「国史」であると著者は指摘する。そして国家は文明から逃れて生きる人びとを「野蛮人」とする。だが、果たしてその「野蛮人」といわれる側から見た世界はどんなものか。

スコットは国家なきゾミア的な場所は世界中にあったと述べる。

そして日本にも柳田国男の『遠野物語』のように、実際に存在する。

出典がみつからず申しわけないが、以前山の中で暮らす人々のインタビューで先の大戦中、戦争がおきている実感は特になかった、食べるのに困ることもなかった、といった話をされているのを読んだことがあった。

国家どうしが戦争したり権力闘争したりがあっても知ったこっちゃないのだ。

宮崎県の椎葉村を柳田国男が訪れたとき、「そこは社会主義の理想を実現したユートピアだった」と感動していたという。

戦後まで長く狩猟や焼畑で生計を立てていた椎葉村では、山の土地はすべて村の共有地だった。そして畑地などが多い家にはすくなく、あまりない家には多くの山の土地を割りあてることで、貧富の差がひろがらないようにしていた。
――本書 41ページより引用

ふと思うが、国家から逃れた人びとが山奥でユートピアを築けた理由の一つに、「アンチとすべき国家の存在」が不可欠なのではないだろうか。国家が生まれる前の人びとは「ゾミア」のようなユートピアを築けていたのだろうか。

脱線した。

わたしたちは知名度に惑わされがちである。

広く多く報じられた人や組織に注目しがちであるが、実際はどうか。

たよりになるのは、隣りにいるふつうの人だった。
――本書 53ページより引用

これは阪神・淡路大震災の話しである。

救出された人の八割近くが家族や近隣住民、警察や消防、自衛隊が救助したのは二割ほど。

東日本大震災もそうだろう。

米軍のトモダチ作成などキャッチーで華のあるものを報道は追いかけ、わたしたちはそれを称賛する。

だが、事実としてわたしたちが最も頼れるのはわたしたちである。

だとすれば、どうするか。

いまの政治家がやっていることは、政治を政治家だけのものとし、わたしたちから今の政治を切り離すことだ。

著者は言う。

ぼくらの暮らしに政治をとりもどす必要がある。
――本書 61ページより引用

パンデミックは、いつの時代も、いかに国家が人びとの足を引っ張る存在であるかを証明してくれる。

隠蔽による防疫の立ち遅れで失われる命の数は計り知れない。

スペイン風邪はアメリカ、今回のコロナは中国。

日本もひどかった。

ゴリ押しで配布された布マスク、東京オリンピック。

国は強大な権力で足を引っ張り自治体が限られた予算とリソースと権限を降る動員してがんばっていた。

だからこそ、既存の国家の体制をうまく利用する
――本書 70ページより引用

保守的アナキスト

フーコーによると「権力」は「国家権力」ではないと明言している。

「むしろ権力は至る所にある」と。

フーコーが注目したのは「性の問題」。

愛する人と家族になり生涯をともにしたい。

このような欲求を持った場合、婚姻制度という形で国家は介入してくる。

保守的アナキストのオードリー・タンはトランスジェンダーで性別なし。

性の解放は国家権力の支配がおよんでいないことの証明。

国家が必死に人びとの性を抑えたがるのは、そこに権力が生じることをよく理解しているからだろう。

リーダーとは

この民族の長と先制王は非なるもの。

それを象徴するのがアメリカ先住民アパッチの首長ジェロニモの物語。

ジェロニモは家族を皆殺しにされ復讐を誓い戦いを指揮し大勝利をおさめる。

さらなる復讐に燃えるジェロニモだがついてくるものはいなかった。

戦士としての能力で民族の道具となったジェロニモが、今度は民族を彼の道具にしようとして失敗した
――本書 91ページより引用

多くの民主国家では、権力の座に期間を設けているが、これは案外うまいものとは言えない実例であろう。

その人の資質と状況の関係性が重要という話だからだ。

平時、有事、災害時などを明確に区切ることができる指標があって、そのたびに選挙すれば良いのか。

そもそもリーダーとなるべき者の資質が、現代では歪んでいるのだ。

首長になる人間がいるのは、どのような人間集団においても、仲間とは違って、特権そのものを愛好し、責任をもつということに惹き付けられ、そして公の仕事の負担そのものが報酬であるような人間がいるからである レヴィ=ストロース
――本書 85ページより引用

自然発生的に生まれた民族という集団の首長は斯様なものであり、歴史上の権力者とは根底から異なる。権力者は首長的なものをハックした者たちなのだろう。

首長たちの仕事は決断を下すのではなく同意を得ること。

レヴィ=ストロースは、「同意」こそが権力の源であると同時に、その権力を制限するものだといった。それはあきらかに民主主義の理念そのものだ。
――本書 93ページより引用

それがなぜこんなことになってしまったのか。国家なき民族社会で機能していた民主主義が国家のもとでは機能不全に陥る。答えは明らかじゃないか。

悪いのは「国家」だ。

国家と民主主義について

多くの国家なき社会は、すくない労働で生存に必要な食料を入手する高度な技術をもっていた。それでも、必要以上には働こうとしない。一方、ぼくらは必要を充たせても、それ以上に働こうとする。考えてみれば不思議だ。
――本書 95ページより引用

クラストルは、歴史上、「過剰な生産」が生まれたのは、社会が支配者と被支配者に分かれたからだという。

支配者は働かず、もっぱら被支配者が生みだす余剰生産物に依存して暮らす。

つまり、その支配者の生活を支えるために、人びとは自分たちの必要をこえて働くことを強制されてきたのだ。

平等社会は国家の出現とともに失われた。
――本書 96ページより引用

なるほど。

とすれば、平等に言及する民主国家はブラックジョークか。

「この国では民主主義が機能していない」というボヤキに対する回答をグレーバーは述べている。

グレーバーはいう。ある集団が国家の視界の外でどうにかやっていこうと努力するとき、実践としての民主主義が生まれる。むしろ民主主義と国家という強制装置は不可能な結合であり、「民主主義国家」とは矛盾でしかない、と。
――本書 99ページより引用

そもそも「国家」と「民主主義」は相容れないものであると。こんな角度で考えたことなどなかった。

グレーバーは、人類学的アナキズムは、より民主的な政治を可能にする社会形態を目指すもので、「実はアナキズムと民主主義はおおむね同じものである」(同一〇頁)と述べている。
――本書 100ページより引用

いつのまにか「民主主義」は「国家」に従属あるいは付随する下位関係にあるものと勝手に信じ込んでいた。

言われてみれば子供のころ教室や遊び場で私たちは自然発生的に民主主義的な行動をしていたことがあった。

国家という強制装置がなくとも、そこに集団があれば私たちは民主主義を選択し行動することは起こりうるのだ。

マーケットと資本主義

マーケットという単語から何を想像するか。 証券通貨などを扱う金融取引、ビジネス一般における取引の場というイメージだろうか。 「フェルナン・ブローデル」というフランス歴史家の言葉から。
「市場(いちば)」と「資本主義は」同じではない。
――本書 111ページより引用
非日常の空間である市は、庶民にとって日頃のしがらみから逃れ、ささやかな散財で気分を変えられる自由の空間でもあった。
――本書 117ページより引用

続いて歴史家「網野善彦」の言葉。

市場が自由と平和の保障された「無縁所」であり、「公界」出会ったと指摘した。
――本書 118ページより引用

かつて「市場」とは、経済のみの場ではなかった。

人間の感情が交錯し魂を解放する場という側面を併せて担っていた。

その後者を削ぎ落としたのが、現在の「マーケット」と呼ばれるものなのだろう。

昨今の無料で新規市場を開拓し、十分に寡占化がなされると本性(エヴィル)を剥き出しにして消費者や市場を食い荒らすいわゆる「フリーミアム」というビジネスモデルは、資本主義が行き着いた成れの果てかもしれない。

そこには本来の「市場」の姿は微塵も残っていない。

資本主義が行き着く先では人びとの暮らしのために存在することはない。

ギャンブルやゲームの類に堕してしまうものなのだろう。

現在のところ、独占や寡占が起きうる社会モデルしか人類は発明できていない。

現代政治と民主主義

社会学者「マックス・ヴェーバー」の言葉を引きながらの著者の論である。
グレーバーは「『政策』は政治の否定である」という言葉でそれを表現する(同四五頁)。「政策」という概念は、他者に自分たちの意向を強要する国家や統治機構の存在を前提とする。それは特権階級によってでっち上げられたもので、「人びとが自らの問題を解決する」という本来の政治の思想とは相容れない。
――本書 142ページより引用
採決とは、公の場でなされる勝負であって、そこでは誰かが負けを見ることになる。投票やその他の方式による採決は、屈辱や憎しみを確実にするのに最適の手段であって、究極的にはコミュニティの破壊をすら、引き起こしかねない。(同四五頁)
――本書 143ページより引用
重要なのは、自分の意見が完全に無視されたと感じて立ち去ってしまう者が誰もいないようにすること、そして自分が属する集団が間違った決定をしたと考える人びとさえもが、受け身の黙諾を与える気になるようにと計らうことである(同四六頁)
――本書 144ページより引用
個人の意見を尊重してばかりいて、全体の秩序が保てるのか? そう疑問に思う人もいるだろう。それくらいぼくらは、国家(自分たちを代表する政治家)が決定したことにみんなで従う社会契約モデル、あるいは上官の命令に絶対服従を強いる軍隊組織モデルに想像力を制約されている。
――本書 146ページより引用
どんなときも他者への強制を嫌い、みんなでルールに従うような行動を可能なかぎり避けようとする。そこでは、ゆるやかなまとまりを維持しながらも、多数派の意思決定に服従を強いられる人はいない。グレーバーが指摘したようなコンセンサスにもとづく共同性は、実現不可能な理想ではなく、むしろ民族誌的事実なのだ。
――本書 148ページより引用

どうだろうか。

民主主義とは切り離せないモノとして認識していた政策や多数決は民主主義ではないという話しだ。

つまり、真に民主主義を実践する手段をわたしたちはまだ持ち得ていないという話しだろうか。

国家なき自治をおしすすめるとなると、本書で紹介される民族たちのように様々な問題を自分たちの手で解決しなくてはならない。

隠れた犠牲者を生む土壌になりかねない気配はあるが、考えてみれば今だって変わらない。

また誰もが声を上げられるネットのようなインフラさえ維持されていれば、これまでとは違った社会形成は可能かもしれない。

民主主義は支持するけどそれを運営するシステムが反民主主義的である現状は、「民主主義」を建前にしてしまっているからだろう。

なぜなら民主主義は非常に非効率であるからだ。

つまり経済的理由にひっぱられた結果、民主主義は建前と化し、システムは効率的な専制的なものへと行き着いたのではないか。

そんな気がしてきた。

資本主義と政治の関係性について

「平等社会」は、善人の善人によるユートピアではない。むしろ人間が我欲という業をかかえた不完全な存在だからこその仕組みなのだ。
――本書 162ページより引用

以下は、現在進行系のコロナ感染について「松島健」というイタリアの精神医療の研究者が記した言葉を引きながらの呂者の論である。

ヨーロッパで最初に感染が拡大したイタリアでは、一部の地域で深刻な医療崩壊が起きた。松島は、それが一大産業集積地であるロンバルディア州だったと指摘する。原則無料の公的医療が提供されるイタリアで、同州はいち早く先進的な保険医療システムを導入していた。それは公的医療に民間企業の経営手法を導入し、州ごとに保険医療の目的や報酬を決められる制度改革だった。結果、同州では民間病院が半数をこえ、神経外科や心臓外科といった収益率の高い高度医療の拠点が次々と整備された。「稼げる」医療の優先で、地域医療や家庭医といった公的医療を支える地域ネットワークがないがしろにされた。家庭医との連携のない感染者は直接病院に行くしかない。そして病院で感染がひろがる。当初、民間病院は感染者の受け入れを拒み、病床を提供したのは自体が悪化したあとだった。
――本書 172ページより引用
一刻を争う決断の手前で、いかに時間をかけて地域のなかで相互的な人間関係や場を築いておけるか。松島は、それこそが多様な意見に耳を傾け、じっくりと交渉し妥協点をみいだす民主性そのものだと指摘する。追いこまれたすえの「決断」など、政治ですらない。
行政の効率化やコスト削減が改革だとされる。だがムダを排除した効率性にもとづくシステムはいざということきに脆い。
――本書 175ページより引用

やはりそうだ。

資本主義の世界で「ムダ」とされるものが、いざというときにわたしたちを救うのに最も必要なものなのだ。

わたしたちの政治は、この「ムダ」を死守するものでなければならない。

経済合理性に、政治は引きずられてはならないの。

アナキズムにおける民主主義

これは、前後の流れとは関係があまりないが、印象的な箇所だったので引用する。

極端に暴力的な支配は、それが消失した途端、もっとも粗暴で反社会的な行動を生む。「もしあなたが人びとを本気で大人として処するなら、彼らは即刻、大人として行動しはじめるだろう」。アナキズムにおける民主主義の根底にはその信念がある。
――本書 177ページより引用

現代の世界はどうだろうか。身近なところでこの国はどうだろうか。

わたしたちは大人として処されているだろうか。

わたしたちは周囲を大人として処しているだろうか。

分断からコミュニティの再生へ

これは全世界でそうなのだろう。

一定の経済的豊かさを手にれいた地域では、それまで生きるためにつなぎ合っていた手を離し、独立して生きる人や家族が増殖し分断が進む。

結果として、周囲の様子が見えない社会ができあがる。

子どもへの虐待にしても、高齢者の孤立にしても、たとえすぐ横に問題をかかえた人がいても気づけない。この他者の困難を知りえない状況こそが、政治や経済を暮らしから遠ざけてしまっている。社会の問題が、いつも他人事にとどまるのだ。
――本書 190ページより引用

他人から干渉されることも、人間関係に煩わされることもなく、好きな時間に好きなことをして暮らせる自由。

でもその自由は、なにごともなく生きられるときだけの束の間の自由だ。

事件事故災害など困難は突然襲ってくる。

決して少なくないそれらをふだん他人ごととしてやり過ごし、自身にふりかかって初めて対処するのは無理がある。

わたしも日ごろから人付きあいはできれば避けたい派である。

しかし万一のときに備え互いに手を貸し合える程度のつながりは必要だ。

そもそも、「わたしは自由に生きる」と言いつつ社会のインフラにタダ乗りするのはダサい。

本気で自由を望むなら自給自足の覚悟が必要だろう。

コンヴィヴィアリティ

聞き慣れない言葉、「コンヴィヴィアリティ」。

他者との対面的な出会いにさらされ、言葉をかわしつづけるのはめんどうくさい。でも確実に凝り固まっていた身体がほぐれ、外部にひらかれる感覚がある。だんだん目の前にいるエチオピアの若者の顔が、日本でもいそうな顔にみえてくる。すると、日本人とか、エチオピア人とか、固定的な差異に結びつけられていた境界が揺らぎはじめる。まさにニャムンジョのいうコンヴィヴィアルな状態になる。
――本書 202ページより引用

「フランシス・ニャムンジョ」は、アフリカを代表する人類学者である。

正直まだ「コンヴィヴィアリティ」を消化できていない。

検索してみると、本来「饗宴」「陽気さ」「宴会気分」といった意味をもつこの言葉を「イヴァン・イリイチ」という人物が社会科学に取りこみ提唱した話しが出てくる。

ニャムンジョが唱える「コンヴィヴィアリティ」は、それと同一というわけではないが共通点をもった概念のようである。

コンヴィヴィアリティとは本来、饗宴、陽気さ、宴会気分といった意味をもつが、イヴァン・イリイチが、それを社会科学の議論のなかでの分析に用いて以来(1973に出版されたTools for Conviviality邦訳『コンヴィヴィアリティのための道具』など)、教育学や社会学、人類学などで広く使われるようになった。イリイチによるコンヴィヴィアリティは、自立した個人が周りの環境(共同体、一次集団等)と創造的に交わるなかで、個人の自由や創造性が共同体などの集団と調和しながら共生している状態を指す。

ニャムンジョ氏のコンヴィヴィアリティも同じようなトーンをもち、異なったり競合したりするエージェントが、利用されたり騙される恐れなしに共存し、相互浸透、相互依存、相互主体性の精神を吹き込まれた全体の一部となっていること、とされる。とりわけ集団と個人との関係について論じられ、個人が集団の犠牲になることなく、集団に属しながらも個人の達成を追求し、それが集団に承認され、相互に支え合う状態のあり方をコンヴィヴィアリティと呼ぶ。しかしその状態はつねに交渉され、更新され続ける動的なプロセスとされる。

持続的な共生を集団が目指す場合において、非常に重要な概念なのだろうという感触ぐらいしか理解できていない。

紛争が多い地域で争いを避け生存を可能とした思想とはどんなものか。

これはいくつか論文等読んでみる必要がありそうだ。

クラ

これも同様に聞きなれない言葉「クラ」。

これは、ニューギニア東部のエリアにある宝物の名称。

この「クラ」とはメタ的に何であるかを解釈するのがカギなのであろう。

概要はざっとこんな具合。

  • 近隣のほかの島のパートナーへ送り届け、食事や祝祭による歓待を受ける
  • 「赤色の貝の円盤状の首飾り」と「白い貝を磨き上げた腕輪」の二種類
  • ふつう一、二年で手放され、保有し続けることは許されない
  • もらった宝物はしばらく手元におき、決められた方向の別の島のパートナーに贈る
  • ふつう一、二年で手放され、保有し続けることは許されない
  • 蓄財したり、独り占めすることは最大の悪
  • 「クラ」を所有することより、それを送りあう関係性の相手がいることが財産となる

以下は「クラ」を調査したイギリスの人類学者「ブロニスワフ・マリノフスキ」に関する箇所の引用。

マリノフスキの報告は、「未開」とされる人びとが国家的な強制力などなくても道徳的秩序を互いに遵守し、利己的な我欲よりも、社会的な名声や名誉を重んじるモラルを保っていることを示した。
――本書 208ページより引用
マリノフスキはいう。「彼らにとって、所有するとは与えることだ」
――本書 209ページより引用
ぼくらは「経済」を金儲けや利潤を上げることだと誤解してきた。経済とは、ぼくらが他者とともに生きるための原理だったのだ。
――本書 209ページより引用
他者との関係を築き、互いに必要なものを融通しあい、秩序を維持するために、モノをやりとりする経済がある。それは「経済」と「社会」がほとんど同義であることを意味する。このひろい意味の経済は、市場のように既存の社会関係から人を開放し、自由と平等の空間をつくりだすと同時に、遠く離れた人びとを結びつけ、そこにある種の倫理的な関係性や秩序を築きあげている。独占する力がはびこる市場は、その市場の秘められた潜在力を覆い隠してきた。
経済のために人が身をすり減らし、どれだけ市場経済に貢献したかで人の価値が定まるようなものは、そもそも経済でもなんでもない。
――本書 211ページより引用

本当に意味での「民主主義」や「市場」の話しに関する有用なシステムは「存在する」という話しだ。

グレーバーが『負債論』で示した「人間の経済」と「商業の経済」との対比。この「人間の経済」が「商業の経済」に変わるときの象徴的な存在が「奴隷」だ。
――本書 212ページより引用
マリノフスキがいうように、ぼくらは受けとってくれる相手がいてはじめて与えることができる。そしてそのやりとりをとおして、豊かさや喜びを手にすることができる。本来、「利他」と「利己」は分かちがたいのだ。
――本書 216ページより引用

その他、響いた箇所の引用

少数の勇敢な者たちが、座り込み抗議、デモ、可決された法案に対する大規模な違反などによって法律や慣習を率先して破らなければ、解放運動の拡大はありえなかっただろう。憤慨、憤懣、憤怒によって活気づけられた破壊的な行動は、彼らの要求が既存の制度的・法的な枠組みの中では満たされないということを見事に露呈させた。このように進んで法を破る彼らの気持ちに内在したのは、無秩序と混乱の種を撒き散らしたいという欲求ではなく、むしろより公正な法的秩序を創出しようとする強い衝動だった。現在の法治主義が、かつてよりも寛容で、解放的であるというのであれば、私たちはその恩恵を過去の法律違反者たちに負っている。(『実践 日々のアナキズム』二六頁)
――本書 221ページより引用
政治を政治家まかせに、経済を資本家や経営者まかせにしてきた結果、ぼくらはみくびられ、やりたい放題にやられてきた。政治と経済の手綱を生活者が握り、よりよいやり方をみずから体現していく。その実践が国のやることに自信をもってNOを突きつける根拠にもなる。
台湾で急速に民主化が進んだ原点には、二〇一四年三月、日本の国会にあたる立法院を三週間あまり占拠した「ひまわり学生運動」があった。学生たちはこの議会占拠という非合法な手段を通じて、政治家に要求を突きつけ、交渉を行い、ひろく市民に訴えかけた。彼らは政権を転覆させる「革命」を起こしたわけではない。むしろ既存の政治体制のなかで市民の力を可視化してみせたことが、政治家を動かし、社会を変えてきた。国家なき社会の政治がそうだったように、監視し、要求し不同意を突きつける主導権は、つねに生活者の側にある。
――本書 223ページより引用
国家は暮らしのための道具にすぎない。それがアナキストの身構えだ。
――本書 224ページより引用
「正しさ」は、ときに人間が完全な存在であるかのような錯覚に陥らせる。
――本書 226ページより引用
ぼくらはときに真面目であるべき対象を取り違えてしまう。大切な暮らしを守るために、日々の生活でいやなことにはちゃんと不真面目になる。ルールや「正しさ」や国家のために一人ひとりの暮らしが犠牲にされる。それこそがぼくらの生活を脅かしてきた倒錯だ。
――本書 227ページより引用

まとめ

生きていくために必要なものを取得、交換する広い意味での経済活動はいつの時代も避けることができない人間活動のひとつだ。

そして、社会的な動物であるわたしたちは他者とかかわりを持つ以上、常に何かしらの問題を抱えている。

これを解決する政治的な活動も避けることができない活動のひとつだ。

これら基本的活動のあり方は、大きく見直してしかるべきと納得できる話しばかりではなかろうか。

そして、もっといいやり方がたくさんあるじゃないか。

たぶん、これらの方法が支持されないのは「独占」を封じているからだ。

独占、独裁、これを人生をかけて手にしようとするものがいるのも現実だ。

プーチンなんかもその系譜にいる独裁的な思想をもつ人物であろう。

しかし科学技術が進化し、思想も以前よりも深まった現代において、「個」がもつパワーは人類史上最大と言えるほど高まっているのも事実だ。

国家なんていらない。

今日からわたしはアナキスト。

国家がなくとも困っている人がいればわたしは、わたしの意志で手助けをする。

逆の立場になればおなじ思いの同士をたよる。

現代国家を生身の人間に背負わせるシステム自体がそもそも無理がある。

問題を解決するための国家が新たな解決不可能な問題を量産するとかシャレにもならない。

すべての人が、各自の周囲数メートルの範囲を大切にすることができればよいと世界中のアナキストたちは教えてくれる。

この本がひとりでも多くの人にとどいてほしい。

著者について

松村圭一郎(まつむら・けいいちろう)
1975年熊本生まれ。岡山大学文学部准教授。専門は文化人類学。所有と分配、海外出稼ぎ、市場と国家の関係などについて研究。著書に『うしろめたさの人類学』(ミシマ社、第72回毎日出版文化賞特別賞)、『はみだしの人類学』(NHK出版)、『これからの大学(春秋社)など、共著書に『文化人類学の思考法』(世界思想社)、『働くことの人類学』(黒鳥社)。
――本書より引用

『くらしのアナキズム』 松村圭一郎【読書感想・備忘録】

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序1 - 本記事の概要

今朝、シンガーソングライター「川本真琴」さんによるこのツイートが話題になっていた。

今日を過ごすあいだ、思いがけずこのツイートが脳を活性化しさまざまなことを考えた。

わたしは音楽の専門家でもなんでもない、ただの一消費者である。

カセット、CDの時代から音楽を聴きはじめ、サブスクが流行する今日まで音楽を楽しむ日々を送っている。

そんな一人の音楽ファンの立場からいろいろ思うこともあったので、言語化しネットの海へとブン投げる儀式を行いたいと思った次第。

序2 - 川本真琴さんと彼女のツイートに対するわたしの立場

とんでもない批判を繰り広げようとか、何か強目の偏った思想があるわけではない。

わたしは熱心なファンというわけではないが、デビュー直後、ブレイク時、その後から現在にいたるまで、川本真琴さんの音楽が好きである。

現在にいたるまで、他の人にはつくれない音楽をつくり続ける稀有なアーティストだと思う。

岡村ちゃんをリスペクトしているところもポイントが高い。

川本真琴が〈川本和代〉だった頃――デビュー前の秘話と当時のデモ集『No.1 Hippie Power』を語る | Mikiki

96年、岡村靖幸プロデュースのシングル“愛の才能”で鮮烈なデビューを果たし、現在はメジャー/インディーの枠組みにとらわれない自由な活動を続けている川本真琴。そのデビュー前、20歳のときに自身で作ったデ

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いま現在、アーティストとして生計を立て生きている人にとって、ここ10~20年の大きな変化はたいへんだろうと素人ながらに想像している。

楽曲政策やパフォーマンスに専念するのが難しい時代だ。

とくに、90年代の黄金期に成功体験がある人であれば、その落差に余計に戸惑うことは想像に難くない。

よって、ツイートの内容もそうだろうなあと同意以外の感想は何もない。

以上、好感、肯定のみが私が川本真琴さんおよび彼女が発信したツイートに対する立場である。

本題 - 音楽のサブスクは悪か正義か或いは……

全肯定なのに何をそんなにあれこれ考え言語化するほどのものがあるのか。

今朝の時点でわたしもそう思っていた。

思考が回り始めたのは、「サブスクは悪なのか?」というところから。

フィジカルから配信への過渡期

前述したとおり、現役のアーティストにとってはきびしい時代なのだろうと思いつつも、消費者にとっては毎月少額で幅広い音楽を楽しむことができる黄金時代なのだ。

わたしが本格的に音楽を聴き始めたのは90年代に入ってから。

レンタルのCDを借りてきてカセットテープにダビングするのが、わたしの周囲での作法だった。

働きはじめてからは自分のお金で毎月CDを買っていた。

お気に入りのアーティストが見つかると全作品を網羅的に聴くのがわたしの流儀。

多いときは月に10万円ぐらいのCDを購入し、ライブにもよく足を運んでいた。

そう考えるとサブスク全盛のいまは隔世の感がある。

実のところわたしはサブスクは利用していない。

理由のひとつは、わたしの好むアーティストがサブスクサービスに含まれていないことが多いこと。

もうひとつは、いまも変わらず行っているお気に入りを見つけ全作品を網羅的に聴くわたしの流儀はサブスクと相性が悪い。

楽曲の入手方法がCDからダウンロード購入に、プレイヤーが専用機器からパソコン&スマホに変わったものの、サブスクの恩恵とは無縁なのである。

サブスクが成長カテゴリとはいえ、わたしと同様な形で購入する人もけっこういるだろうし、フィジカルアイテムを手元に置きたい方もまだまだいるだろう。

選択肢が増えたのだと思えばよいことだと思うが、現在は過渡期。

流通経路が安定するまでのあいだ、発信側はこの大きなうねりに逆らうことはできない。

アーティストの価値は低下する

かつて新しい音楽をつくりだす優れた才能にふれることができるのは一部の特権階級だけだった。

雅楽は朝廷のものだったしクラシックは宮廷のものだった。

アーティストがその活動に専念するにはパトロンが欠かせない。

そのパトロンが一部の特権階級から庶民へとうつり大衆化する。

いま現在まで続いている、ファン全員がお金を投じ推しを支えるスタイルだ。

この音楽が大衆化する過程における変化はパトロンのみならず、「聴衆の数が増大化したこと」も大きな変化であると見る。

需要が高まれば供給側もその数が増やさなければならない。

つまり、発掘されるアーティストの数が増える。

ルネッサンス時代と2022年、年間デビューアーティストの数を比べてみればとんでもない差があるだろう。

数が増えれば相対的にアーティストひとり当たりの希少性は低下する。

またYoutubeや日本のニコ動など、誰もが低価格で配信できるプラットフォームが登場し、さらなる革命が起きた。

音楽業界が発掘したアーティストは、全世界に存在する才能のごくごくごく一部でしかないことがバレてしまったのだ。

無名の天才がどれだけ可視化されたことだろうか。

この先も才能を発掘・供給、あるいは自ら発表するインフラが成長し続けることにより、相対的にひとり当たりの希少性の減退は止めることができないのではないか。

音楽ビジネスにおいて希少性は収益に大きく影響することは想像に難くない。

終 - 結論というかまとめ

こんな感じのことを一日中考えていた。

結論としては、川本真琴さんのツイートはおおいに理解できるものであるし、一方で才能を披露できるインフラが充実するにつれ個々の取り分は減り続けるのが現実、というなんともお手厳しいものになってしまった。

これは一般人の妄想の域を出ない話なので、実際にどうなるかは分からない。

音楽がゲームや映像サブスクに大勝ちし全体のパイをぶっちぎりで広げていくかもしれない。

ネット界の勝者ゲーム業界からマネタイズのプロフェッショナルたちがこぞって音楽業界に鞍替えし収益構造に革命をもたらすかもしれない。

確かなことは、わたしはおそらくサブスクは利用しないし好きなアルバムを購入し続けるだろう。

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幸い目に問題がない方々もそうだと思うが、私の日常における活動は視覚を頼る場面が多い。見て気づき、見て知り、見て思考する。リラックする場面でも映像や写真を楽しんだり視覚を多用する。しかし使用頻度が高いが

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サブスクの功罪について ー 川本真琴さんのツイートに思うこと【日記】

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序1 - この記事の概要

お笑い芸人「爆笑問題・太田光さん(以降、敬称略)」による統一教会に関する発言が毎週炎上している。

参院選挙中の銃撃事件からはじまった一連について、わたしのような一般市民が語れることは少なく、感想の域を出ないだろう。

だが太田光に関することについてはさまざまな思いが頭のなかを行き交うのだ。

どうにかこのモヤモヤを言語化し、わたし個人の精神を安定させたいことがひとつ。

そして、あわよくば同じようなモヤモヤを抱えた方の思考の一助となることがもうひとつ。

以上この2点を狙いとしてあれこれ書いてみたい。

序2 - わたしにとって「太田光」とは

わたしは「太田光」ウォッチャー

はじめて爆笑問題を知ったのは30年以上も前だろうか。

痩せ型でねこ背、ボソボソとしゃべり突如奇声をあげ、ところ狭しと暴れまわる。

若い頃からどこか陰のある「太田光」というコメディアンにわたしはおおいに魅了されてきた。

最初のデビュー当時にやっていたコント、一度テレビから消え新たな武器として引っさげてきた漫才。

どちらも「不快」と「快」を同時にぶつけてくるその独特なスタイルは唯一無二であると感じた。

テレビスターへの階段を一気にかけ上がり、爆笑問題をみる機会はますます増えていった。

そのなかでも、『爆笑問題のススメ』『爆笑問題のニッポンの教養』など、彼の内面が顔をのぞかせる番組に注目するようになる。著作なども読むようになる。

いまでは一週間のふりかえりの側面もあるラジオ番組(「爆笑問題カウボーイ」「爆笑問題の日曜サンデー」)で、彼の発言やふるまいに対する考えと、わたし個人が感じたことの答えあわせをする。

追っかけとまではいかないが、ほんのりキモくぬるく注目をつづけるそんなわたしは「太田光ウォッチャー」。

わたしのなかの「太田光」

太田光のキャラクター

ちょっとキモい章題だがグッとこらえておつきあい願いたい。

メディアを通じて知る太田光はわたしのなかで「こんな人であるよ」という個人的偏見とキモさを交えて披露してみたい。

わたしは爆笑問題が出ている番組以外でも「太田光」を感じることがしばしばある。

なにがトリガーなのかはなんとなく分かっている。

「笑い」と「悲哀」が同居する場面だ。

たとえば、人を笑わせるのに泣き顔のメイク、サーカスのクラウンなどが分かりやすい。

すこし前になるが映画『ジョーカー』をみていたとき。誰かを楽しませようとする姿に哀愁がただよう「ホアキン・フェニックス」に太田光を重ねていた。

そのあと暴力を選択したジョーカーと太田光は相容れないのだが。

太田光の言葉と暴力に対する姿勢

太田光はことあるごとに暴力や封殺を否定する。

いや暴言吐いたり着ぐるみにタックルしたりじゅうぶん暴力的じゃないか、と思う方もいるだろう。

だが太田光の真意としては、言葉も身体的な動作も、結果として「楽しい」につなげたいのだとわたしは思っている。

結果として「悲しみ」につながる、たとえば命を奪ったり、精神を追いこむこととは真逆に彼の思いはある。

だがこのあたりの境界線を絶望的に表現できていないところが悲劇であり、愛おしいところでもあるのだ。

太田光の笑いと悲しみの原点

あちこちで語られてきたので知っている方もいるだろう。

彼は友達づくりに失敗し、高校3年間のあいだ一言も発することなく過ごし、かつ皆勤賞だった。

「つらければ逃げればいい」――爆笑問題・太田光にとって生きることは居心地のいい場所を探し続けること #今つらいあなたへ(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)

太田光の高校時代はまさに暗黒時代だった。入学初日にクラスメートに話しかけるきっかけを見つけられなかった、たったそれだけで高校三年間、誰とも会話をすることがなかった。次第に鈍っていく感情。気づけば「死

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この時期に純文学や映画や演劇を孤独に吸収していたという。

圧倒的な孤独のなかにあって形づくられた感受性。それが、そのときの温度感そのままにいまも太田光のなかにあるのだろう。

不快さと快楽を同時に発するような表現や、楽しい空間への飢餓感は、そのような青春時代の裏返しだと感じる。

太田光が立とうとする場所

さまざまな人や意見がある状況において、いつでも太田光は孤独である人、弱い立場にある人の側に立とうとする。

強い決意をもって意志的に立とうとする。

お笑い芸人であるがゆえのジレンマもあるだろう。だがそうせずにはいられない衝動が見え隠れしている。

また「感性」に重きをおく彼は、権力やマウントのための経済力を小バカにしているフシがある。

逆張り、迎合などではない。

太田光が立つ場所というのはどんな場あってもあらかじめ決まっているのだ。

ここで危険を察知。

このくだりは何日でも書きつづけることができてしまう。

お笑い芸人としても、ひとりの人間としても大好きであるため書けば書くほどになってしまう。

その思いを伝えるのは今回の主題ではないので断腸の思いで次へ。

本題 - 統一教会に関する「爆笑問題・太田光」の発言および炎上に対し思うことを言語化する

まず、この炎上している案件に対するわたしの立場を僭越ながら申しあげたい。

太田光の発言について

  • 内容についてはまったく同意
  • ただし、言葉をあきらめてはいけないといいつつ、どうせ伝わらないと思っているフシについては同意しない

炎上している方々(以降、大衆とする)について

  • この感じの炎上はこの国の様式美とも言える伝統的所作なので否定しない。
  • ただし、多様な声に耳をかたむけることができる環境(ネット)があるにもかかわらず、いにしえの所作をくり返すことについては同意しない

両者に対して是と非がある。「八方美人」が私のスタンス。

個々について詳細を記す。

太田光に対する「是」について

これは、前述の「太田光が立とうとする場所」に記した通り。

今回の事件が起きてから、サンジャポできっと太田光は「信者たち」に目を向けるだろうと思っていた。太田光の多くのファンは予想どおりではないか。

末端の信者たちは、本人は真面目に信仰していると思われるが、社会的に見れば被害者であろう。

そして搾取され権限を持たない弱者であり、いまごろ教団バッシングの余波を毎日浴びせられているであろう被害者でもある。

予想以上にガッツリ深めに言及したのには驚いた。真意はわからない。だが彼のパートナーである光代社長が宗教に苦しんだ過去があったことも関係しているかもしれない。

起きたら消してしまうかもしれないつぶやき。私が宗教二世だったからかな。子供の時、育ての父が助けてくれて脱会したけど。今問題の教会ではないけど。親戚の中にも宗教の人いるから。だから全く関係ないアーリンが。私の犠牲になっているのかな。私は悲しいかな、宗教が嫌いな刹那な人です。

「是」とする理由、それはわたしも同じ思いだからだ。

今回の事件でわたしたちが行うべきは、いまの被害者を救うこと、未来の被害者を出さないようにすることが最重要と思う。

山上容疑者は、加害者の立場でもあるが教団による被害者でもある。

犯罪は裁きを受け罪を償わなければならない。

一方、被害者としては救済されなければならない。

安部元首相は、被害者の立場でもあるが教団に力を与えてしまった加害的立場としての疑いもある。

教団がいまでも問題を継続していることについては徹底的に解明し、もし関りがあったのであれば故人と言えど罪を償うべき対象だ。

一方、銃撃という理不尽な暴力に曝されてしまった被害者であり、亡くなってしまったが救済されるべき立場だ。

そして、現在の信者・元信者たちも同様である。

罪を犯していれば裁きを受けなければならないが、教団によるマインドコントロール、略取からは救済されるべき対象だ。

すべてはここを死守した上でのことではないか。

救うべき人を救うより悪を倒すことを優先しろというのはエゴを満たしたいだけの一人よがりに他ならない。

社会正義を言うならば、悪を倒すために救済は後回しは本末転倒である。

よって、この一点をブレずに掲げる太田光の発言について、わたしは賛同する。

太田光に対する「否」について

これは多分に憶測を含んでいるので、勝手に思って勝手にどうかと思っているだけかもしれない。

前述したが、太田光はその週の発言やその後の反響に関してラジオのオープニングトークの長い時間を利用して話すことがしばしばある。

だがこの件については「諦め」をその口ぶりから感じてしまう。

もともと「これだけが正しい」というような考えはしていない。割となんでも良いと思っていながらフザケて突っかかっていく印象だ。

正義マンが跋扈し、何を犠牲にしてでも正義は貫かれねばならないような世相に対し、引いていると言うか、諦めていると言うか、軽く絶望すらしているように感じている。勝手にだが。

民主主義が後退して久しい昨今。

じっくりお互いが落とし所を見つけられるまで、じっくり膝をつき合わせて話をする文化はとおのむかしに過ぎ去ってしまった。

いまは短い時間で場を支配すれば「論破」と称し、勝ちとなる。

多数決の勝負に勝てば、結果的に言うとおりになるんだからとすべき議論を避ける。

数の暴力、他の意見を封じる手法は、瞬間的な勝利に結びつきはする。しかし長期的にみると積み重ねすぎた禍根により滅び去ることを歴史は嫌というほど証明してきている。

その再現なきループを抜け出す手段として先人たちが発明したもののひとつが民主主義であろう。

いちおう、この国は民主主義を標榜する国家。民主主義とは、議論を尽くし、少数派が暗黙の受諾を容認する道を最後まで探り、最終的に決済するプロセスを経ることで、持続的な共同体を目指す手段である。

ネットで個々の声が可視化されやすくなった。結果、見えてきたのは反民主主義とおぼしき声、声、声である。

太田光は山下容疑者が選んだ手段、つまり暴力を前に、たとえどうあっても我々は言葉を諦めてはならないと言った。

彼は山下容疑者の悲しみや無念を痛いほど理解していると思う。

銃撃事件があったあと、息詰まり落ち込んでいる様子が三週にわたってラジオから漏れ伝わってきた。

考えに考え、苦しみに苦しみぬいた上で、それでも「言葉を諦めてはいけない」と発したのだ。

だが、それと同時に「言ったところで伝わらないのだろう」という諦めも感じてしまった。

ネットという拡声器でそれなりの人数が反民主主義的なふるまいを見せるなか、絶望してしまう気持ちは分からないでもない。

ただ、もっとも多い層というのは「わざわざみんなに聞こえるように話さない人たち」である。

それが可視化されることがない限りはまだ分からない。諦めてほしくはないと、勝手ながら思っているのだ。

「否」というよりは、願望のようになってしまった。

大衆に対する「是」

テレビの生放送という時間や使用可能な言葉など様々な制約が存在する場において、複雑な事象に対するコメントを的確に行うことは、大変な技術を要することである。

正直、太田光がもっとも不得意とするものと私は認識している。

連日の報道でわたしたちは「教団憎し」一色だ。

ましてやネットニュースで知る層などは日頃から彼への関心はそんなに無いだろう。

そこにあの断片的な説明は、可燃性の高いハイオク燃料をぶち込むことにほかならない。

燃えるべくして燃えることをしたのだから、みな燃やしたいだけ燃やせばいいと思う。

ただし、法といういラインは守らなければいけない。

大衆に対する「否」

わたしたち大衆はいつも間違える。

ひとたび大きな出来事があれば、本質に迫ることや、未来につながる話しは後まわしだ。

大切なことは退屈なのだ。

「議論」という文化を持たないわたしたちは、目まぐるしく流れゆく情報の消費にいそしんでいしまう。

わたしたちが「当事者不在」を好むのは周知のとおり。

結果、当事者はいつも蚊帳の外におかれてしまう。

今回のことで言えば、当事者は加害者である山上容疑者、被害者である安部元首相、そして動機である本来のターゲットである教団。

しかし最も多い頻度で報じられるのはどの政治家が教団と接点があったか。

鬼の首でも取ったかのように「今日はコイツがやっていたのが発覚しました!」とやっている。

山上容疑者にもっとフォーカスしていい。

同じ事件を起こしてはならないと思うのであれば、現役および元信者を徹底的に追いかけるほうがよいはずだ。

また、政教分離や信教の自由はなぜ重要なのかあらためて見直すとともに、それらが曖昧なこの国の制度について議論すべきよきタイミングではないか。

太田光は、いまもっとも味方が少なく、さまざまな声におびえ、声を上げる手段を持たない信者たち、とりわけ二世や巻き込まれた人たちの側に立って発言しているだけなのだ。

わたしたちが見過ごしてしまっている人たちだ。

現行法の問題や歴史的経緯を直視せず、ただただ教団をカルトや反社認定したいだけの人からすると、太田光は「敵側」となるのだろう。

カルトや反社を認定するのは並大抵なことではない。

どの団体までアウトなのか、どの行為までがアウトなのか、それは誰がどう決めるのか。

もし何の議論もせず、感情的な「気分」で決めてしまうと今度は別の犠牲を生むことになりかねない。

太田光と大衆

太田光は「大衆」というものを信用していないとわたしは思っている。

と同時に信じたいとも思っているのではないだろうか。

もう10年以上前だったか、媒体を忘れてしまったが、内容は太田光がある大物政治家と対談したことについてのもの。

有事だったか原発だったか、テーマもうろ覚えで申し訳ないが、一国の宰相として決断を迫られたとき、あなたはどうするかという質問を太田光が投げかけた。

そうすると、その政治家は「国民の声をよく聞いて判断する」と答えたそうだ。

太田光は、ガッカリしたと話していた。

憶測だが、彼ははこう思ったのではないか。

  • この国において、大衆はいつも間違える。
  • ときに政治家はみずからの政治生命と引き換えに決断を下すと言ってほしかった。

太田光は読書家である。SF好きはわりと知られていると思うが、何でも読む。歴史モノや近代政治などもよく知っている。

わたしも歴史モノ、近代史など好んで読む。

「この国では、大衆はいつも間違える」という点について共感する。

わたしたちはいつも間違えるのだ。

ふだん、お上に任せっきりにしておきながら何かあれば一気呵成に感情任せに非難をはじめる。

そして、幕府が政府になっても、帝国主義が民主主義になっても、変わり身の速さは一級品。さも以前からそうだったかのように振る舞う。

日頃から政治的なことに参加意識が無いから簡単に変わることが可能なのだ。

責任感のない、無責任だからこそ成せるすべである。

そんな無責任な大衆の声に従って、果たしてより良い方向へと歩んでいけるかといえばあやしい。

コトが起きたときだけ感情的に声を上げはじめるわたしたちはいつも間違えてしまうのだ。しかもゼロか百の思考しか持ち合わせていない。階調がない。

しかしフランスのようになればいいとも思わない。

こんな無責任なわたし達だからこそ、世界史に類を見ない江戸時代のような長期にわたって平和な時代を築き上げた実績もある。

だが無責任な国民性のもとでは声なき犠牲を避けられない。

教団憎しをゴリ押し、宗教は悪の世界に変わったとき、わたしたちは素知らぬ顔でニューワールドを生きるだろう。

その陰で置き去りにされてしまった人たちのことなど忘れて。

ネットで見える化が進んだ21世紀において、さすがに日常的無責任無関心自己責任な伝統文化はそろそろあらためるべき時なのではないか。

おわりに

言いたかったことは、太田光は教団や政治家の擁護者ではないしけっこういいやつなんだぜということと、大きな人災が起きたときわたしたちは胸に手をあてて考える習慣を身に着けようや、という話しだ。

テキストで飛び交うワードはたいてい煽り要素がマシマシである。

人は感情が動くと行動する。

人が動けば経済も動く。

いちばん動かすのにコストがかからないのが「怒」である。

だから、視聴率やPVや部数をさばきたい人たちは煽るのである。

個人でやってる場合はただの承認欲求モンスターか愉快犯。そっとしておいてあげるのが吉だ。

勢いまかせに書いたのでまとまり悪いし長くなってしまった。

太田光憎しの人はまずこんな文章を読まないだろうし、ここまでお付き合いいただけた方はかなり特異な方だと思う。(失礼)

人の孤独と孤独が互いに混じり合うことって無いのだろうかと思うといつも悲しくなる。だがすこしでも良くなるようにと希望は捨てたくない。

せめてもの抵抗としてこの投稿をネットの海へ投げ込むのだ。

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学生時代の不勉強を後悔することは大人のあるある。

正直に告白すると、私はかなりの数学アレルギー持ち。

いちから数学と向き合おうと決めたのだが、テキストに伸ばす手の重さと言ったらない。

「まずは数学を学ぶモチベをあげよう!」と、本書を手にとってみたのだが……。

『とんでもなく役に立つ数学』の概要

その問題、数学で乗り越えられます! 「渋滞学」で有名な東大教授が、私たちの生活をよりよくする「生きた数学」を、高校生に本気で語る。経済予測にまどわされないコツ、東京マラソンで3万人をスムーズにスタートさせる方法、人生の選択に役立つグラフ――受験のときにきざみこまれた苦手意識や、公式の丸暗記など、形式ばったイメージも一新。教科書からリアルな世界へ。使えて楽しい、数学の新たな魅力を届けます。
――本書より引用

とあるように、「渋滞学」でメディア出演もある西成教授による高校生に向けて行われた「数学の魅力」に関する講義を収録した一冊。

日本の渋滞、どうやったら解消できる?アリに学ぶ「渋滞学」 | 酒井真弓のDX最前線 | ダイヤモンド・オンライン

日本の道路は渋滞に満ちあふれている。渋滞の解消は、人間社会における重要な課題と言っても過言ではない。渋滞をなくす方法はないのだろうか?「アリの行列は渋滞しない」という事実に着想を得た渋滞解消法を提唱す

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感想と備忘録

数学アレルギーの原因

上記概要のとおり、本書の目的は、数学を学習することではなく、「数学の魅力」について知ること。

授業冒頭、西成教授が数学の魅力に取りつかれた子供時代の話しから多くの謎が解けることとなった。

現在、西成教授はあらゆる事象を解き明かす「武器」あるいは「道具」として数学を用いている。

子どものころは先生の言うことやルールに素直に従うことがなかったそうだ。

勉強も好きなように好きなものを学ぶと早くから決めていたとのこと。

先生だからといって、すべてを知っているわけではないということに驚いたし、わからないことをそのまま覚えるなんて納得できなかった。このとき私は、学校の勉強とは独立して、自分で自分のやりたいように勉強しようと心に決めたのです。
――本書18ページより引用

そんな少年が数学にハマりこんでいく。

これは想像だが、「数学は授業という形式で学ぶには不向きな学問である」、というひとつの証左ではないか。

おそらく、西成少年が数学を授業というチャンネル以外の接点を見出していなかったらどうなっただろう。

持ち前の反発心や頑固さが幸いし、数学を自ら学習したことにより、数学の本質的な魅力に早くから気づくことができたのではないだろうか。

つまり、私を含む大勢いるだろう数学アレルギーの原因は、「授業」という形式で数学を浴びたことによる、と私は断言(言い訳)したい。

私たちの暮らしと地続きの数学

西成教授は生徒たちとの質疑を通して私たちの生活の身近なところに数学があることを伝えていく。

「可能性」という言葉で私たちが頻繁に用いる概念も、つまりは数学の「確率」のこと。

私などは感覚的に可能性を案じるが、「確率」を用いるとぼんやりとした視界が一気にクリアになる。

迷いの多い人生だが、もう少し力強く歩んでいけるような気になるから不思議だ。

そして授業で耳にすると一気に鳥肌が立つこと受け合い「微分」と「積分」。

これらも数式や理論よりもまず、身近にある現象・事象に置き換えて説明がなされる。

これはスローモーションの映像の例えから。

時間をゆっくり動かし、ほんのちょっとの変化を取り出して、それを気長に細かく分け、変化に関係している要因を割り出すのが微分。そして、その、ほんのちょっとの変化、前のコマと次のコマとの差を、気長に積み重ねていくのが積分です。
――本書70ページより引用

これを用いることで自然界における様々な現象を解析し、予測へとつなげることができる。

人工衛星が宇宙に行って帰ってこれるのもその一つ。

その他、人間関係のトラブルや集団行動と絡めた「ゲーム理論」、津波警報の計算は「ソリトン理論」による、渋滞を解析する「セルオートマン」などなど、数学理論を身近なコトに結びつけて語られる。抵抗感なく耳を傾けることができる。

数学が社会に届くまでの道のり

これは大枠について。「数学」という学問とリアルな世界とがどのように呼応しているかの話し。これは遠くにある(と私が感じている)数学と、私たちの生活空間との関係性を話してくれている。

また数学に関連する分野である「物理」や「工学」の関係性や違いについてスッキリとした理解を得ることができる。

山から小さな湧水が、だんだん集まって大きな川になり、それが最後海に流れ込むよね。数学は、まさに最上流に位置する湧水のようなものです。
――本書120ページより引用

なるほど。

その湧水をいろいろな要素と結びつけて、より現実的に育てていくものが物理で、さらに実際の応用を意識した研究が工学。それが社会に流れていき、私たちの社会にたどりつくのです。
海に流れた水は蒸発して大気中に出ていき、雨になって山に戻ってきますが、このような大循環は、数学と社会の呼応にもあてはまります。
――本書120ページより引用

私たちの生活を便利にしたり命を救ったり安全を守ったりする実社会のおおもとには数学→物理→工学の流れがあり循環しているのだ。

そしてその源泉は「数学」。

つまり数学の進化なくして実社会の発展はないと言っても言い過ぎではないのでは。

ふと思ったけど、研究開発費が現象まっしぐらの日本は大丈夫なのでしょうかね???

社会問題を数学で解決する

西成教授の代名詞ともいえる「渋滞学」についても多く語られている。

これまで何度かメディアで説明を見聞きしたことがあったが、分かったような分かっていなかった私。

科学の対象となりにくい人間の行動をいくつもの数学理論を用いて挑むわけで話はたいへん難しくなるはず。

それが、「数学に苦手意識を持つ学生に向けた話し」という難易度で読むことができるのだからありがたい。

まず渋滞とはどういった現象であるかを物理学を用いて解析し、渋滞の事象をセルオートマンで表現する。

計算を重ね「渋滞吸収車」という解を導き出す。

読んでいてワクワクする。

最後は学生とともに、3万人が参加する東京マラソンのスタートをいかにスムーズにできるかに挑む。

これは、ガッツリ数式を使って解決を試みており、私は完全に置いてけぼりとなってしまった。

だが、本書を読む前と違うのは、数式に対するアレルギーではなく、理解できない悔しさが勝っていたことだ。

一から数学を学びなおし、この最後のくだりはぜひ読み返したい。

無駄学

西成教授は数学と並行して「無駄」についても研究をしているとのこと。

示唆に富む話だった。

教授は「無駄の反義語」を生徒たちに問う。

しっくりしたモノは無い。そもそも無駄の定義自体もしっくりくるものがない。

また、「世の中無駄だらけ」「この世に無駄なものはひとつもない」という相反する意見が共存している。

結論として教授は以下のように説明する。

つまり、「いつまでに役立つのか」、という期間を設定ないと、無駄かどうかは決められないのです。世の中無駄だらけ、という人は、この期間設定が短く、世の中無駄なものなんて何もない、という人は期間設定が長いのです。
――本書223ページより引用

私たちは成果と結びついて初めて「無駄ではない」と判断する。

現時点で成果が出ていない、あるいは失敗している場合は無駄となるが、さらにその先に成果が生まれれば無駄ではなかったといえる。

期間設定をどこまでと定めるかによるという話、なるほど。

そして、この無駄学の延長として、私たちの社会を構成するシステム「資本主義」へと話しが進む。

社会システム「資本主義」の話

これはたまたま並行して読んでいる『資本主義リアリズム』という本と関連する話で刺さった。備忘録として記しておきたい。

いわゆる「西側」と分類される地域で長いこと人間をやっていると「資本主義って実際どうよ?」という疑問にぶち当たる。

そもそも資本主義は「地球の資源は無限」が前提のツッコミどころ満載「永続的利益最大化計画」である、と私は認識している。

ただ無知な私はツッコミ方が分からない。

西成教授の話はそのあたりの疑問にいくつかヒントを与えてくれるものだった。

223ページ以降から箇条書きの引用でメモを残す。

  • 現在の資本主義が人類の社会システムの最終形態なのかというと、このままいけるとも思えない。
  • 現在のシステムは、すべてにおいて「経済成長」を前提にした仕組みで成り立っています。
  • 1972年にローマクラブが出した報告書「成長の限界」では、このまま人口増加や環境破壊がつづけば、今後百年以内に人類の成長は限界に達して世界は危機に陥る、と書かれてありました。
  • 成長一辺倒のシステムは、地球が有限である限り、いつかは破たんします。
  • そこで、経済成長なしでやっていけるシステムは可能かどうかという議論が、以前から世界でなされているのです。

ちょっと想像してみれば確かにそうだ。優秀な方々はすでに新しいシステムを生み出そうと頑張っているのだ。

実際にはどういった案があるのか、その辺も語っている。

  • ゼロ成長社会というと、個人がチャレンジ精神をなくして社会の創造性が減退していくような暗いイメージがつきまとう。
  • 微分方程式論によれば、ある量が時間とともにどのように変化していくかは、①いずれ一定の状態に落ち着く、②無限に増えつづける、③振動状態になる、という3つのパターンになります。
  • 第3の「振動」状態、これに対応する経済システムというのはありえるのではないか。(振動経済)
  • 平均的には成長率はゼロですが、あるときはプラスで、あるときはマイナスになるのを周期的にくり返す。
  • 景気の波というのは、もうちょっと長い周期で来る。
  • トータルで上昇している。
  • もうちょっと小さな振動で、トータルで上に向かわない、成長率0パーセントで、小さくゆらゆらしている、そんなことができないかなとイメージしています。

実際にとか具体的にという話しを現時点でするのは野暮だろう。

いまの資本主義が生み出す弊害は「成長を常とするところ」にその原因の多くがあると考えている。

であれば、この「成長を常としないモデル」は大きなヒントになる気がする。

おそらく新たなシステムが生まれたとしても新たな弊害が生まれるだろう。

だが人類が真に成長させるべきは「経済」ではなく「システム」だろうと気づかされる。

消費しきれない生産性を発明できたとして喜ぶのは投資家やボードの面々だけだろう。

持続的で幸せな人の数を最大化できるシステムが良いと思うのだがどうだろうか。

まとめ

本書を通じ、本来の私の目的は達せられたと思う。

なぜなら読む前にはミリも存在しなかった「数学を学ぶ覚悟」を決めることができたから。

私のような数学アレルギー持ちで必要なのに学ぶ勇気を持てなかった人間をこうも変化させる『とんでもなく役に立つ数学』はとんでもなく役に立つので興味がある方はぜひぜひ読んでみてほしい。

『とんでもなく役に立つ数学』 西成活裕 【読書感想・備忘録】