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今年の六月に入って以降、新規に書いたブログ記事がGoogleインデックスに登録されないトラブルが発生していました。

解決方法が分かったので備忘録を兼ね一連の対応をまとめました。

※他のブログサービスやホームページによるケースは未検証です。同様に解決できるかはご自身の責任でお願いいたします。

今回のトラブルと対処方法の概要

利用ブログ

Blogger(Google提供のブログサービス)

トラブル内容

Googleインデックスに新しいブログ記事が登録されない。

トラブル原因

Google Search Consoleで表示されるエラー名は「リダイレクトエラー」。

対処方法

URLから記号(ハイフン)を削除した。

今回のトラブルと対処方法の詳細

トラブル原因

Google Search Consoleで「カバレッジ」のエラーを表示してみると「リダイレクトエラー」が発生していた。

説明画像1

試しに、Google Search Consoleの「URL検査」で、エラーに該当する「ashitano-tarinai-futari.html」という記事を検査する。

説明画像2

やはり「リダイレクトエラー」とメッセージがあるが、それ以上の情報は無い。

Search Consoleヘルプでリダイレクトエラーの詳細について確認する。

リダイレクト エラー: リダイレクト チェーンが長すぎる、リダイレクト ループが発生している、リダイレクト URL が最終的に URL の最大長を超えた、リダイレクト チェーンに不正または空の URL がある、のいずれかのタイプのリダイレクト エラーに Google が遭遇しました。Lighthouse などのウェブ デバッグツールを使用して、リダイレクトに関する詳細情報を入手してください。

該当URLのリダイレクトを「リダイレクトチェック」で調べてみるが、リダイレクトを必要としないページのため問題なし。

リダイレクトチェック(ohotuku.jp)

この他、いくつか「リダイレクトエラー」に関するブログを読んでみたがいずれも該当せず。

リダイレクトエラー のエラー原因と改善方法 - 株式会社ココログラフ

リダイレクトエラーとは、リダイレクト処理でエラーが発生している場合に表示されます。リダイレクトは、指定のWebサイトに来訪したユーザーを自動的に指定した別ページに転送する処理のことを指します。ページの

blog card

サーチコンソールのリダイレクトエラーの原因を解説!【解決できます】 | AKINOTE

ブログ実践者であればサーチコンソール導入していると思いますが問題が発生するとかなり焦りますよね。 この記事ではサーチコンソールでの【リダイレクトエラー】の解決方法を解説していきます。 かなり単純なこと

そこで、ふと「ブログ記事のHTMLファイル名に問題があるのではないか」と考えた。

Bloggerでは「パーマリンク」という項目でURLの一部をユーザカスタムができ、私はなるべく記事のタイトルに即したものにする運用をしていた。

説明画像4

具体的には、タイトルを英訳し、単語をハイフン区切りにする。

そこでURLに含まれる記号(とりわけハイフン)について言及している記事をいくつか読んでみたが、ハイフンがいかんというようなモノは見つからなかった。

discovered url in search console with hyphen character | WordPress.org

My site urls have not been recognized by google even though I’m using XML Sitemaps plugin. According

blog card

SEO best practice: Underscores or Hyphens in URLs?

Google sees hyphens as word separators in URLs but does not view underscores in URLs the same.

blog card

しかし、試しにURLからハイフンを削除してみたところうまく行ってしまった。

結果的に、URLのHTMLファイル名に含まれるハイフンが原因となってしまった。

Search ConsoleやBloggerのドキュメントにその記載は見当たらない。

何より、ハイフンを含めて作成していた過去記事については問題なくインデックス登録され続けている。

非常に腑に落ちないが、現時点での結果。後日わかったことがあれば追記します。

対処方法

原因に書いた通り、Bloggerのパーマリンクでハイフンを削除し、Search Console でインデックス登録をリクエストした。

そうしたら半日かからずに問題なくインデックス登録された。

説明画像5

おわりに

6月に発覚してから解決まで長く時間がかかった割にはすっきりせず。

要因は、ハッキリした原因が分かっていないためだ。

6月ごろに仕様が変わったのか。そのようなアナウンスがあったのかな?

どなたかご存じの方がいましたらコメントやTwitter等で教えていただけたら嬉しい限りです。

【解決】リダイレクトエラーでGoogleインデックスに記事が登録されないトラブル【Blogger】

今年三月に妹が亡くなってから少しずつ遺品整理をしてきた。

「いったい何人の人間がおったのか?」と思うほどの物量を残しておくものとして分けたりリサイクルしたりゴミに出したりしながら数か月を経て今日が最後の片づけとなった。

必死に生きたと思う。

少なくとも私や両親よりは激しく生きたと思う。

その生きた残滓を消し去る作業に湧いてくる感情はうまく当てはまる言葉が見つからない。

今日は私ひとりだった。

車を運転しての帰り道、高速道路を走りながら思いっきり二度、叫んだ。

喉の奥が切れたような痛みを感じた。

ずっと折り合いをつけることができずにいるこの感情をどこに、どう持っていけばいいのか分からない。

遺体となった妹と対面したとき、火葬した骨を骨壺に入れたとき、納骨をしたとき、そしてこれを書いているいまも感情が定まることがない。

無意識に感情が動いてしまうことが無いようブレーキをかけているのかもしれない。

明日は先月亡くなった叔母の納骨のため墓地に行く。

妹の墓と同じ霊園内だ。

納骨の前に訪ねるけど、何と言葉をかければいいのか、何を考えればいいのか分からない。

【日記】遺品整理

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シーラッハ作品画像

フェルディナント・フォン・シーラッハを語りたい

シーシーラッハー、シーラッハー!

みなさん、「シーラッハ」してますか?

フェルディナント・フォン・シーラッハ

1964年ドイツ、ミュンヘン生まれ。ナチ党全国青少年最高指導者バルドゥール・フォン・シーラッハの孫。1994年からベルリンで刑事事件弁護士として活躍する。デビュー作である『犯罪』が本国でクライスト賞、日本で2012年本屋大賞「翻訳小説部門」第1位を受賞した。2010年に『罪悪』を、2011年に初長篇となる『コリーニ事件』、2013年に長篇第二作『禁忌』を刊行。

そう、「フェルディナント・フォン・シーラッハ」とは、日本で2011年に作品が発表され翌年の本屋大賞をキッカケに大注目されたドイツの小説家です。

私がシーラッハし始めたのは今年2021年。

10年ほど遅れてのマイブーム到来なんてよくある話しでしょうし、おそらく当時はまた別の何かに夢中でした。たぶん。

世間の喧騒をよそに身勝手なタイミングで火が付き吐き散らしたくなる現象に名前はあるのでしょうか。

というわけで、シーラッハして間もない私ではありますが、まだシーラッハできていない方に向け「フェルディナント・フォン・シーラッハ」という作家、そして彼の作品の魅力について僭越ながら語らせていただこうというのが本記事の主旨となります。

まだ4作品しか読了していないのですが、中毒性の高い劇薬「フェルディナント・フォン・シーラッハ」の魅力を誰かに伝えないと爆発してしまいそうなのです。

ミステリ好きの方はもちろん、海外作品は得意ではない方でも楽しめると思います。

それではしばしお付き合いくださいませ。

これまでに読んだシーラッハ作品

最初に『禁忌』という作品を読んだのですが、この作品はシーラッハ作品の第5作目にあたります。

読後、「一作目から順番に読みたかった」と心から思いました。

普段はそれほど著者を軸に読書する方では無いのですが、読んでいる途中で「久々に著者に惚れるパターンや!これは!」と気づいたわけです。

できることならリアルタイムで1作目から楽しんでみたい人生だったけど10年遅かった。

気を取り直し、デビュー作『犯罪』、二作目『罪悪』、と続いて第三作目の『コリーニ事件』へとたどり着きました。

ちなみに『コリーニ事件』が日本で出版されたのは2013年です。ようやく私は2013年、令和はまだ遠い。

まずはシーラッハ作品通じて感じた特徴、続いて私が読み終えた4作品について発表された順にネタバレがないように作品紹介をしてみたいと思います。

シーラッハ作品の特徴

著者は現役の刑事弁護士です。弁護士は弁護士でも「刑事弁護士」というのがポイントです。

『禁忌』はまた違った特徴が出てきますが、刑事弁護士の視点からストーリーが語られる特徴があり、初期三作品は特にそうです。

刑事弁護士が主軸となると、おのずと描写される場面は事件現場、面会室、法廷が主となります。狭い世界ですね。

そして彼の文体に大きな特徴があります。

デビュー作では顕著ですが「これは裁判所発行の裁判記録かな?」てな具合です。

つまり無駄な描写や形容詞や修飾語などはございあせん。

硬く、冷たく、淡々と。事実の列挙!列挙!です。

こうなると、物語の事件そのものが読ませるものじゃないとキッツいですね。読めたもんじゃない。

お察しのとおり、事件それ自体で挑む「ミステリ界の超ストロングスタイル」こそがフェルディナント・フォン・シーラッハの大きな特徴だと言いたいワケなのです。

うっすいストーリーを分厚い情景描写と胸焼けする心理描写で「お前はファミチキか!」いうぐらいに旨味油でパンパンに膨らましたような小説とはワケが違う。

黒いショートタイツとリングシューズに象徴されるような、超骨太でごっつい事件それ自体で真っ向勝負ですよ。痺れるじゃあないですか。

少し熱くなり過ぎました。

正確に言うと、作品ごとに描写の幅や物語性は増していくのです。

しかしながら、作品のコアは「事件そのもの」。

そしてそれら事件を可能な限り主観を排し読者に提示しているところに大きなポイントがあります。

言っときますがフィクション作品です。もしかしたら酷似した事件を著者が弁護士として経験しているかもしれませんが、あくまでフィクション上の事件です。

そんでフィクションとは言え、「なぜシーラッハはこのような事件を世の中に提示したのか」、これを考えるわけであります。

シーラッハが叩きつけてくる事件つーのが、何といいますかぁー、ムズイんですよぉぉぉぉ。

なにがムズイんかと言うと、水戸黄門や昔のヒーローもんのように白黒ハッキリできねーんすよ。これが。

第一作目と二作目は短編なので、初期三作で20以上の事件をぶん投げてくるわけですよ、シーラッハ。

そして、その事件一つ一つにこっちは悶絶します。

悶絶ポイントは、「罪とは?」そしてそれを裁く「法とは?」です。

なんのこっちゃ。

お気楽ワイドショーで「アー、残酷ダー」「アー、イカンイカン、重罪で決まりダァー」なんていうお気楽おとぎ話の世界とは一線を画した、生々しく、そしてグロテスクな「罪」との邂逅を余儀なくされるんす。

そんなもんをザクザク突き付けてくるからたまったもんじゃ―ないよこっちは!

またしても熱くなり過ぎました。

果たしてシーラッハ読むの楽しいのかどうか謎の紹介になっている気がするけど大丈夫かしら。

熱量濁音一本勝負で伝えようとするのは良くないとは分かってるんですが、スキルがないのでもーしわけない。

説明不足で言葉足らずで申し訳ない限りではありますが、シーラッハの特徴が1ミリでも伝われば幸いです。

大いなる不安を胸に、これまで読んできた作品をネタバレせずに紹介してみたいと思います。

シーラッハ作品の紹介

これを書いている時点(2021年9月7日)で出版されているシーラッハ作品は下記のとおりです。

  • 犯罪      初版:2011年6月15日
  • 罪悪      初版:2012年2月20日
  • コリーニ事件  初版:2013年4月15日
  • 禁忌      初版:2015年1月9日
  • カールの降誕祭 初版:2015年11月13日
  • テロ      初版:2016年7月15日
  • 刑罰      初版:2019年6月14日

そして、今回ご紹介するのは『犯罪』『罪悪』『コリーニ事件』『禁忌』の4作になります。

日本での出版順は『禁忌』が4作目ですが、ドイツでは『カールの降誕祭』が4作目で『禁忌』が5作目となります。

また、この他にも翻訳されていない作品があることが著者のHPで確認できます。
Ferdinand von Schirach ホームページ Books 一覧

読みたい作品がまだまだあることは嬉しい限りです。

それでは上述した4作品をご紹介してみたいと思います。

犯罪

本作品は2009年にシーラッハのデビュー作として出版された11編からなる短編集です。

まず目次を引用します。

  • フェーナー氏 7
  • タナタ氏の茶碗 23
  • チェロ 47
  • ハリネズミ 65
  • 幸運 81
  • サマータイム 95
  • 正当防衛 129
  • 緑 149
  • 棘 171
  • 愛情 187
  • エチオピアの男 197

――本書より引用

タイトルの横にある数字はページ番号です。

お気づきかと思いますが、各話のページ数は10~20ページほど。

「スッカスカじゃないか疑惑」が沸き起こりそうですが、大丈夫です。身はギッシリ詰まっております。

この少ないページ数、冒頭で暑苦しく述べましたが事件そのもので読者を楽しませるのだという話し、察していただけたのではないでしょうか。

簡潔極まりない文章でつづられた、短編集で、しかもまだ国内では無名だった作家の作品が日本でも幅広く読まれたというのは驚きです。

ただ海外作品で短編モノというのも案外良いのかもしれないと思う点として、「登場人物が少ない」というのはあるかもしれません。

海外作品と言えばカタカナの名前がたくさん登場し挫折、なんてパターンもありますからその点もまた海外作品初めての方でも取っつきやすいと思います。

内容ですが、淡々と興味深い事件を列挙してくる感じ、テレビ番組「すべらない話」のミステリ版みたいなものでしょうか。

お笑いのように整ったオチこそ無いですが、短時間で濃いエッセンスの話しを次々めくっていく行為は非常に中毒性が高いかもしれません。

ネタバレ無しというのは難しいっすが、個々の話しには触れないよう、うまいこと外堀を埋めてく感じでいきたいと思います。

まず本作の扉には、

私たちが物語ることのできる現実は、現実そのものではない。
ヴェルナー・K・ハイゼンベルク
――本書より引用

と、ドイツの理論物理学者「ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク」の言葉が引用されています。

同様の意味合いのセリフが『禁忌』にも登場するのですが、この物語られる現実と現実そのものは違うよ、という思想?概念?は、作品を読み進めるにつれてジワジワ効いてきます。

私なりの解釈ですが、「物語る行為」には語り部の主観が入り込む可能性もありますし、多面的であるはずの物事を「語った」時点で「他の面」はそこから抜け落ちてしまう。

すなわち「物語られた現実は、現実そのものとは異なる」ということではないでしょうか。

本作は「ある弁護士」の視点で語られる作品です。

非常に中立的な立ち位置から11篇を物語っていると感じます。

普通であれば、中立的な言葉で語られた話しを自分なりに解釈し、自分なりの真実を脳内に描こうと考えます。

しかし、扉の言葉が一面に転ぼうとするその思考に待ったをかけてきます。

そこで初めて、なんとなく目にとめただけのはずの言葉の深みにハマりこんでいることに気づくのです。

また本作品は、

Ceci n'est pas une pomme. これはリンゴではない
――本書より引用

というフランス語の一文で結ばれています。

この作品と、次の『罪悪』は対になっていると言われております。

『罪悪』の文庫版に、杉江松恋氏の解説が巻末にあり、そこでこのリンゴの話しが書かれています。

是非、二作とも読んでから杉江氏の解説で、私と同様にヘンな声を上げて驚いてほしいと思います。

罪悪

この作品も『犯罪』と同様に短編集となりますが、15編とボリュームは増します。

『犯罪』では、随分とこちらを翻弄してくれる言葉を扉に引用していました。

『罪悪』の扉にはこちらの一文が引用されております。

物事をあるがままに
――アリストテレス
――本書より引用

「さっきと真逆ちゃうか!?」

音に出して言いましたよ、私は。関西人でもないのに。

さっきは語られた現実を否定するようなこと言うて、こんどは「あるがままに」って。いったいどういうことでしょうか。

デビュー作の『犯罪』とこの『罪悪』は丁度「対」と言いますか、「合わせ鏡のような構成」になっているようです。

『犯罪』と『罪悪』はちょうど合わせ鏡のような構成になっています。『犯罪』はまだシーラッハ・ワールドの半身でしかありません。

余談ですが、上記引用はシーラッハ作品の日本語訳を手がけておらます「酒寄進一」氏の記事です。

酒寄進一 さかより・しんいち
1958年生まれ。ドイツ文学翻訳家。上智大学、ケルン大学、ミュンスター大学に学び、新潟大学講師を経て和光大学教授。主な訳書にイーザウ「ネシャン・サーガ」シリーズ、コルドン『ベルリン 1919』『ベルリン 1933』『ベルリン 1945』、ブレヒト『三文オペラ』、キアンプール『この世の涯てまで、よろしく』、フォン・シーラッハ『犯罪』『罪悪』、ノイハウス『深い疵』『白雪姫には死んでもらう』、クッチャー『濡れた魚』『死者の声なき声』『ゴールドスティン』他。
――『禁忌』より引用

シーラッハのみならずドイツのミステリ作品を幅広く語っていて面白いのでリンクを貼っておきます。

翻訳ミステリー大賞シンジケート 検索結果:酒寄進一

話しを戻します。

本作も『犯罪』同様に淡々とした切り口で15の物語が綴られていますが、連作ではないですが一冊の作品となるような仕掛けが施してあります。

そして、それがまた素晴らしい。

「驚きと感動」という言葉は中身は三流なのにあまりに金つぎ込んだ三流映画のコピーで使われるようなものですが、マジで驚くし、その驚きに感動させられてしまいました。

内容が透けてしまいそうなので目次の引用は止めておきます。

先ほどの「合わせ鏡」に関連する私なりの解釈したことを少々。

二作品のタイトルの原題は『VERBRECHEN』(犯罪)と『SCHULD』(罪悪)です。

Google先生やその他の翻訳サイトで見る限り概ね同じ意味のようです。

「犯罪」という言葉は「行為」に着目し、対して「罪悪」は犯罪行為における「罪」とされるモノを指している、と思うのです。

『犯罪』のキャッチフレーズ覚えていますでしょうか。

物語られる現実は現実そのものちゃうねん、でしたね。

行為を語るには多面的な側面があります。加害者と被害者。加害者の動機に至るまでのプロセスなどなど切り取る部分や立場によって真実は幾種にもわたります。

一方「罪悪」は、ちょっと goo さんに聞いてみましょう。

ざい‐あく【罪悪】 の解説
道徳や宗教の教えに背くこと。つみ。とが。「罪悪を犯す」

つまりは「刑法」や「教え」を生み出すバックボーンとなる我々の内にある概念でしょうか。

この『罪悪』では「罪」そのものを突きつけられ、『犯罪』にはあった行為をどう見るかといった余地は一切なく、受け入れるか拒絶するかの二択を迫られるかのように感じます。

扉の「物事をあるがままに」は、抗いようのない15編の顛末を暗示していた言葉なのかと思っています。

正直もう少し思索を深めたいところではありますが、残りの作品を読み進めながらたどり着くことができたら追記したいと思います。

内容にはなるべく触れないようにとは思うのですが、次に行く前に、本作でどうしても引用し、紹介したい箇所があります。

本作6編目「間男」という作品の法廷の場面で、ドイツ刑法の理念に触れるくだりがあり、これが胸を打つのです。

少々長いのですが以下引用します。

ドイツ刑法は、百三十年の歴史を持つ賢明な法律だ。物事は犯人の思惑通りにはいかない場合が多い。犯人がリボルバーに弾をこめたとする。弾は五発。女を狙い、発砲する。犯人には殺人の意志があった。だが四発をはずし、そのうちの一発が女の腕をかする。犯人は女の前に立ち、リボルバーのグリップで女の腹を殴り、撃鉄を起こす。そのとき女の腕を伝い落ちる血が目に入り、女が怯えていることに気づく。犯人がそこでもう一度思い直したとしよう。粗悪な法律ならば、殺人未遂で男は有罪になり、賢明な法律ならば、女が救われたことが評価される。ドイツの刑法に従えば、犯人は殺人未遂に関して無罪の言い渡しを受ける。殺傷行為を中断し、被害者を死に至らしめなければ、傷害事件で裁かれはしても、殺人未遂にはあたらないからだ。どちらに転ぶかは犯人次第となる。すんでのところで気が変わり、被害者を生かしたなら、ドイツ刑法はその犯人に好意を示す。法学教授はこれを”黄金の架け橋”と呼ぶ。私はこの表現が好きではない。ひとりの人間の心に去来するものは、そんな言葉では言い表せないほど複雑だ。黄金の架け橋は中国の庭園にあるほうがお似合いだ。しかしドイツ刑法の理念は正しい。
――本書「間男」より引用

シチュエーションはクソ男が女性を追い詰める胸くそな状況ではありますが、罪とは何か、何を罪とするかを端的に示していると共に、「間男」の物語の話しの流れから強く印象に残ったのです。

この内容は次のコリーニ事件を読んでいる間もずっと頭の中にありました。

コリーニ事件

デビューから短編が2作続き、本作は打って変わって長編作品となります。

語彙力を99%失った状態でこの作品を一言で言い表したいと思います。

最高です!!!!!

エクスクラメーションマークの数で伝わりましたでしょうか。

法廷ミステリとしては王道と言いますか、新米弁護士が登場した時点で「なるほど、逆転裁判ですね」と思うわけです。

そうです。緊迫した法廷劇がメーンの作品となります。

あまり裁判モノやミステリなどを読まない方でも、ある程度展開は予想できるストーリーだと思うのですが、この作品のコアたる事件がとんでもなかった。

蓋を開けるパンドラの箱のサイズと中身が、えー、もうねー、やばいっすよ。とんでもないもん仕込んでますよ、シーラッハは。

私は言いませんよ。ネタバレしないと誓っていますから。

ぜひ読んでほしいです。

紙と文字にブン殴られますから。(×1)

著者のルーツにも関連する作品と言える側面もあります。

私は著者の詳しいプロフィールを本作の後に知ったのですが、よくもまあ向き合い挑んだものだよと更にカマされました。(×2)

そして最後にその後日談というかリアル後日談があってですね、これにもう私は完全にノックアウトされました。(×3)

以下のリンク先の記事のほか、Wikipediaにも本作の影響について掲載されています。

『コリーニ事件』を読んでからぜひぜひ読んでみてほしいのです。

「コリーニ事件」が突いたドイツ司法の問題点 | 映画・音楽 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

1960年代末、ドイツの連邦議会は議論もなく満場一致である法律を採択した。だが一見、無害そうに見えたその法案には実は「致命的な一文」が差し込まれていた。そんな戦後ドイツの不都合な真実ともいうべき法律の

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カッコ書きで何回ドツき回されたか記しましたが、「3倍おいしい」ということが分かっていただけたかと思います。

言い忘れましたが本作の扉の引用はこちらです。

われわれは
自分にふさわしい生き方をするように
できているのだ。
アーネスト・ヘミングウェイ
――本書より引用

急にエモエモ作品に作風が変わったわけじゃありませんが、魂を揺さぶられる名作です。

読んだ直後で書きたいことお伝えしたいことがたくさんあるのですが、それはまた別の記事にしたいと思います。

本作に関連することとして最後に。

読書メーター」に『犯罪』の感想を書いたところ、『コリーニ事件』は映画化されているとのコメントをいただき、読後に早速観ました。

長編とはいえ非常にスッキリと構成された物語なので、原作との多少の改変はあるものの、とても見やすく、そして見ごたえのある作品でした。

映画は去年公開だったのですよね。できれば映画館で観たかった。

Netflixなどの無料視聴が見当たらなかったのでAmazonのレンタルで観ました。

原作を楽しめたらぜひ映画も一見の価値ありです。

禁忌

冒頭でも書きましたが、この作品が私のシーラッハデビューです。

何をキッカケに知り積読したかはまったく覚えていない。ひどいもんです。

前の3作同様にまずは扉の引用をご紹介します。

緑と赤と青の光が同等にまざりあうとき、それは白に見える。
ヘルムホルツの色彩論
――本書より引用

光の三原色のことですね。

この引用に象徴されるように、本作は「緑」「赤」「青」「白」の名を冠した4編による長編作品となります。

そして内容はというと、大変面食らうワケですよ。

  • ひとつはここまでしつこく繰り返してきた簡潔なその文体です。
  • ひとつは作品の構成。
  • そしてもうひとつは物語そのものです。

シーラッハ文体の特徴はもう気が済むほど書かせていただいたのでさすがに省略いたします。

作品構成ですが、各編それぞれにおいて主要人物・視点が変わります。

  • 「緑」は「ゼバスティアン・フォン・エッシュブルク」という言ってみればこの作品の主人公の青年の物語。
  • 「赤」は「モニカ・ランダウ」という検察官。
  • 「青」は「コンラート・ビーグラー」という刑事弁護士。
  • 「白」は終章として短く結ばれる。

そして最も面食らう物語の内容です。

全体の骨格からすれば法廷劇がハイライトとなるスタンダードな法廷ミステリと言えようもんですが、そうは言い切れない不可思議さが際立ちます。

その要素はいくつかあります。

  • ひとつは、主人公「ゼバスティアン・フォン・エッシュブルク」という人物。
  • ひとつは作品における事件。
  • ひとつはカヴァー写真について。

冒頭の「緑」で主人公の描写、性格、行動にいろいろと面食らうと思います。

また、ミステリだよね?事件を解決する話ですよね?あれ?という具合に、作品上の事件に翻弄されることでしょう。

カヴァー写真については、巻末の訳者あとがきで解説を読むことができます。

余談ですが、本作にはいくつか実在する芸術作品が登場します。

  • 風が落とせし光 詩集 (架空の作品?)
  • 海辺の僧侶 カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(海辺の修道士という同名画家作品あり→MUSEY
  • カルロス四世の家族 ゴヤ (たぶんこれ→Artpedia
  • ヴィーナスの誕生 ボッティチェリ (これですね→MUSEY

芸術に疎いのでそれら作品を検索し眺めながら読み進めることでより楽しむことができたりしました。

一風変わった点は多々あるものの書籍の隅々まで謎と驚きに満ちた素晴らしい一冊だと思います。

往生際が悪く申し訳ないのですが、一か所だけ、冒頭で少し触れた一文を最後に引用させていただきます。

法とモラルがちがうように、真実と現実も別物だ
――本書153ページより引用

この視点は、各作品の根底にあると感じると共に、ふとした時に思い返されます。

終わりに

長々くどくどとフェルディナント・フォン・シーラッハについて語ってまいりましたが、どこかの誰かに届きましたでしょうか。

そもそもここまで読みつく稀有な方は果たしているのだろうか。

たいへん不安ではありますが、非常に魅力あふれる作品をいくつも世に出している素晴らしい作家だと強く思っています。

ひとりでも多くの方がシーラッハ作品に触れ、素敵な読書体験を送られることを心から願ってやみません。

最後までお読みいただきありがとうございます。

長文・駄文、しつれいしました。

ドイツの人気ミステリ作家「フェルディナント・フォン・シーラッハ」のススメ

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我らが少女Aカバー
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高村作品への愛

みなさん、一番好きな日本の作家さんは誰ですか?

はい、「高村薫」ですね。

高村作品の感想を書くたびに自分語りをするのですが、今回もまた懲りずに書く。

なぜなら高村作品は私が初めて自覚的に読んだ小説であり、その後の青春時代、社会人になってからも読み続けてきたので思い入れが半端ないのですね。

各作品ごとに、その時々の思い出が詰まっていたりするのですよ。

20代までは、新作が出ると万全のコンディションを休みの前日に向けて整え、一晩かけて一気に没入読破し、休日は真っ白な抜け殻になるスタイルで高村作品を満喫していた。

しかし30代以降は休み明けに著しい影響をおよぼすようになったので、さすがに少しずつ読むスタイルに断腸の思いで移行した。

高村作品の魅力その1

高村作品の特徴はいろいろあるけれど、まずは入念の調査、取材、にもとづくリアリティ溢れる描写力ですかね。

デビュー作品「黄金を抱いて翔べ」で既に発揮されていた緻密な描写は作品を追うごとに凄味を増していきます。本作なんかホントすごいっすよ。

ただ知った事実を詰め込まれているのとは違う。著者の独特な観察眼、それを吸収する感性、アウトプットする筆力それぞれが常人のそれではない。ゆえに迫力ある描写を生むのでしょう。

高村作品の魅力その2

いわゆるキャラデザも素晴らしい。

直木賞を受賞した『マークスの山』で登場した「合田雄一郎」はその最たる存在。

彼は今回の『われらが少女A』も含め数多くの作品に登場する著者の分身のようなキャラクターで、おそらく高村ファンはみんな大好き「合田雄一郎」でしょう。

現実の時間とともに年齢を重ねてきた合田が惑いながら生きる姿に多くの読者は魅了されてきたのではないでしょうか。

また合田とゆかりのある人物たちもみな魅力に溢れている。

なんつーか、みな愛おしいのですよ。

多分、どんな相手であっても一面的に見てしまうと、ただ好きか嫌いかに収斂されてしまう。

しかし高村氏はこの複雑で矛盾をはらんだ人間なるものをとらえる基本的な視点がそもそもすごいのだと思う。

だから、どの人物にもどこかしらに読み手である自分自身を見つけ、共感してしまうのかもしれません。

高村作品の魅力その3

そして何といっても濃厚で重厚な長編作品ではなかろうか。

いくつも作品を書かれる作家とは違い、高村氏は時代時代に「イカつい長編を叩きつけてくる」イメージがあります。

一作一作のパンチ力が「ズシンッ!」と重たい。もう内臓がグッシャグシャになるレベルで来ます。

読書人口の減少が叫ばれるが、高村氏の長編にどっぷりダイブする快感を知らずに生きるのはもったいない。

高村作品を知らずに生きるなんて、スマホの無い現代人みたいなものっすよ。

こんな拙い前置きをいくら続けたところで高村作品の素晴らしさが届くとは思えないのでこのぐらいで止めておきます。

とにかく伝えたいことは、高村作品読もうぜ。できるだけ初期の作品から手を出していくのがいいと思うぜ、ということです。

『我らが少女A』のあらすじ

待望の合田雄一郎シリーズ、最新刊!

一人の少女がいた――

合田、痛恨の未解決事件


12年前、クリスマスの早朝。
東京郊外の野川公園で写生中の元中学美術教師が殺害された。
犯人はいまだ逮捕されず、当時の捜査責任者合田の胸に、
後悔と未練がくすぶり続ける。
「俺は一体どこで、何を見落としたのか」
そこへ、思いも寄らない新証言が――。
動き出す時間が世界の姿を変えていく
人々の記憶の片々が織りなす物語の結晶

『我らが少女A』の読書感想

※作品の結末に触れるネタバレがあるのでご注意くださいませ。

この作品は、都心から少し離れた東京西部にある小金井市を生活圏とする人々を襲った二つの殺人事件(現在設定である2017年と12年前の2005年)を追いかけるミステリを軸とした物語。

と同時に、事件に翻弄される人々の人間模様を描くドキュメンタリーのような側面も持ち合わせています。詳しくは後述します。

ちなみに今回の作品舞台は東京基督教大学出身の著者が学生時代を送った土地でもあります。著者の感性を育んだ場所のひとつなのではないでしょうか。

作品の見どころをザックリまとめるとこんな具合でしょうか。

  • 合田雄一郎シリーズであること
  • 高村氏の十八番、警察ミステリ要素があること
  • フィクションを超えてしまっていること

高村作品と縁のない方はまったく意味不明だと思うので、一つ一つ解説しながら感想をしたためたいと思います。

合田雄一郎シリーズであること

前置きでも書きましたが、著者は「合田雄一郎」という人物を物語の中心に置いた作品を書き続けてきました。

最初に登場したときは警視庁の一刑事であり、その後少しずつ出世して、本作では警察学校の教員となっています。

物語における合田の立ち位置は、どの作品でも「世界の観測者」のような側面があります。

彼個人にもややエキセントリックなところがあるなど個性の強い人物としての魅力もあるのですが、この「観測者のような存在」という点が作品を読み手に深く伝える役割を果たしているように思うのです。

なんつーか、主観のガッツリ入った主役が動き回る物語って、冷めるでしょ。「押しつけんなや」みたいに。

少々言葉が乱れました。

また高村作品すべてに登場するわけではないけれど、ファンは合田がまた登場することを心のどこかで待っている感じ、あると思うんですよ。当然私もそうなんすよね。新作のニュース見て「合田刑事」の文字見ると「キタキタキタキターーーッ」ってなりますもん。

後述しますが、高村作品は『晴子情歌』という作品を境に、もう少し推測すると「阪神淡路大震災」を境に作風がやや変わるんですよ。

なんといいますが、よりディープになったというか、初見殺しといいますか。

なので、本作に興味をもしもし持っていただけたなら、本作で満足できたならいいんすけど。もし、ちょっとツライなと思ったら、是非、合田が最初に登場する『マークスの山』とかデビュー作とかも読んでみてほしいんですよね。

合田のその後の人生を追っかけてみたくなると思うんです。

高村氏の十八番、警察ミステリ要素があること

これも繰り返しになりますが、「合田雄一郎シリーズ」や初期作品は警察ミステリ仕立ての作品が多く、そこがまた多くのファンを掴んだところでもあったと思います。

しかし、前述した『晴子情歌』以降、刑事事件の登場しない作品が続いたりもしたもんで、これはやっぱり初期からのファンとしては嬉しいポイントなわけですよ。

また本作の優れた点として、かつての警察ミステリ要素と、よりディープな作品を描くようになった近年の要素が見事に混ざりあったと言いますか、一言で、頭からっぽで表現すると「サイコーッ!!!」なんすよ。

社会生活に支障をきたすレベルで没入できること受け合いです。

フィクションを超えてしまっていること

これは、前作『冷血』あたりから感じたことでもあります。

著者は小説家、つまりフィクションの書き手なワケです。

しかし、描写や作品の構成が緻密さを増すと同時に、無駄というか曖昧というか非現実的な要素が排除されていくとどうなると思いますか?

現実を飛び越えてしまった、より現実?、超現実?、オレの言語不自由さよ勘弁してくれ。

最近読み始めた「フェルディナント・フォン・シーラッハ」というドイツの作家の『禁忌』という作品に、「真実と現実も別物だ」という言葉が登場するんですよね。

真実って、同じ現実を前にしていても人によって違うじゃないですか。

例えば当事者か、関係者か、ニュースで知った他者という立場によっても異なるし、当事者間でもそれぞれ違って当たり前だったり。

この作品で描かれる事件は、登場する関係者それぞれが思う真実はやはり異なるわけです。実際もそうでしょう。

物事を多面的に捉えようと試みたとしても、やはり個々によって異なる真実が生まれてしまう。

では、現実というかホントのホントの事実みたいなものって書きようが無いよねと思ってしまう。

だって、書き記してしまったら、これは私にとっての真実です、解釈ですとなってしまうから。

でもね、高村氏はやってのけるんすよ。完全ではないと思う。そりゃあね。

物語には12年越しの2つの殺人事件が登場し、それを取り巻く人々の行動や心模様などが描写される。

それらを俯瞰的というか神の視点のような感じで淡々と、一切の無駄を排除して、全部書く。ぜんぶぜんぶ書く。

普通のミステリだと「犯人は誰だ」「動機は、原因はなんなんだー!?」となると思います。

ワイドショーやドキュメンタリーといえどオチの必要なティービープログラムもそうでしょう。

しかし本作品はどうなるかというと、わかんないんですよ。真実なんて。

もちろん私なりの真実のようなものは推測なりなんなりでありますよ。

でも、最後まで読み切ってまず思うのは、「何でか分からん」。

つまり、事実を全部炙り出すことなんて現実世界では不可能じゃないですか。

でも小説ならできるわけですよ。

小説を、フィクションを、そういう意味合いで用いているんですよ。

で、それを実際やるとどうなるかというと、「真実と現実は別物」で、「確たる答えなんて何一つない」となる。

ほんと私に表現力が絶無なのがもどかしくてならんのだけど、これってモノ凄くないですか?????

もうね、頭を吹き飛ばされたことないけど、吹っ飛んだよ。「スコー―――んっ」って。

もう全然うまく伝わってないことが手に取るように実感できてるんだけど、文才の無さが恥ずいんだけどさ。届け!届いてくれ!!頼むから。届いた???

なんなんだろうなー。

この感じを共感したいっす。誰か。こんな感じしなかったですか?って言いたい。言い合いたい。

ハァーーー。。。。

何の手応えもないのに勝手に燃え尽きてしまった感じになってきたのでもうちょいで終わります。

近年の作品で、著者は仏教に踏み込んだ作品もいくつか書いているんですよ。

人びとの営みを包み込むでもなく否定するでもなく、ただ在るものとして描くこの作品の感じ、仏教的な何かって感じするなとか思いましたね。

何の付けたしやねん。

終わりに

感想なのか何なのかよく分かんない「世界の片隅で(高村作品への)オタク愛を叫ぶ」感じの内容になってしまいました。

それでも何の縁かわかりませんがこんな辺鄙な場所にあるこの記事にたどり着いてくださった方に「高村作品の素晴らしさ」が少しでも届くことを願ってやみません。

長文・駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

著者・訳者について

1953(昭和28)年、大阪市生まれ。作家。1990年『黄金を抱いて翔べ』でデビュー。1993年『マークスの山』で直木賞受賞。著書に『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』『空海』『土の記』等。

過去の高村作品の読書感想

そういえばこのブログを始める前に読んで大好きな『レディ・ジョーカー』とか『リヴィエラを撃て』とか『李歐』とか『照柿』とか再読して感想書いてない。書かんと。

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善と悪の経済学カバー

資本主義の世界で感じるモヤモヤ

皆さん、資本主義の世界をエンジョイしていますか?

一定のルールの元、皆が自由に経済活動することで社会が発展し豊かさを手にする人が増える。人類による優れた発明のひとつ「資本主義」。

資本主義、大好きですかー?

私は半々という感じ。

今は亡きソビエト連邦が行った壮大な社会実験・社会主義は、「人は競争しないと腐る」ことを証明した。

脳がバカデカいとはいえホモ・サピエンスだって動物だもの。その正体は生存競争を勝ち抜いてきた生物界のスーパーエリート、競争の世界で活動するのが健全なのだろう。

その人間の習性をうまく利用した素晴らしい仕組みだと思うよ資本主義。そういった意味では肯定的な気持ちになる。

かと言って、社会主義がダメだったから資本主義はサイコーかと言うと、はっきりイエスと言い切れないのが正直なところだ。

競争するも良しだし、金もうけも一向に構わんのだ。しかしなんつーか社会に出たり大人になってみると「おやっ?」とか「むむっ!?」となること、あるじゃないですか。

例えば、「得られる利益 > ペナルティによる損失」のような場合、ありますね。大人ならわかるね。

こういう時、ゴーサインを出すことが「ビジネス的に正解」となるじゃないですか。

つまり、経済的利益を生み出すことの前で、「倫理」や「道徳」、時には「法」ですら霞むのが資本主義の一つの側面としてある。というこの部分、これが資本主義に対して抱く「おやっ!?」と感じる頻出ケースなワケです。

日本で生まれ育った私は資本主義が唯一体験した経済システムであり、経済活動は自由にできて当たり前だと思って生きてきた。

資本主義は競争を促す構造を持つ。競争であるからして勝者がいれば敗者がいる。

人類は競争にルールを設ける知恵を持つ。不当に不利益を被る人がないようにすることがルールの目的には含まれているはずだ。

ルールのもと健全な競争が行われ勝者と敗者が決するならば何も疑問は持たないかもしれない。

しかし現在進行形で進化拡大を続ける現代資本主義は「利益の追求」が余裕で「ルール」をオーバーランする。

ニュースとか見てるとそんな出来事が世界のどこかで頻繁に起きていると感じるでしょ。

しつこく書いているこの利益の追求がルールどころか道徳や倫理より優先される点の何が「むむっ!?」となるかというと、不当に不利益を被る人が出る、最悪の場合人生が破綻したり死人が出たりすることだ。

つまり「資本主義は社会主義に比べると良いシステムかもしれんけど、犠牲者が出るシステムってダメよね」という話し。

身近で体験したこともありますし、こういう話を耳にするたび、何年経ってもズーンっと気持ちが沈み込んでしまう。

この膨張し続けるモヤモヤと向き合うにはどうすればいいのだっ!と思っていたところ、最適な本と出会うことができた。

ここまで長かったですね。

それはつまり、この記事の主役「善と悪の経済学」だ。

ほんと前置きが長くて申し訳ないが知るもんですか。私の前置きは永遠に終わらない!かもしれないぐらい止まらないからもうちょっとお付き合いを。

著者の「トーマス・セドラチェク」を知ったキッカケ

たしか2008年にリーマンショックが起きた後に放送されたNHKスペシャルだったと記憶している。

多くの経済専門家が出演し様々な問題点を指摘していた。

だがそのほとんどは、リーマンショックという金融危機それ自体を言及するものであった。

そんな中、
「毎年大儲けしてるのに増収増益しないと停滞と見做される」
「メガバンク救済など借金チャラのシステムがないと機能しない」
など、「資本主義の構造そのもの」に言及している人物がいた。

かつて共産主義国家であったチェコ出身の経済学者「トーマス・セドラチェク」である。

彼の語り口はややシニカルな響きを帯びていた。ように思う。

その姿が印書に強く残り、いつか著書を読んでみようと「トーマス・セドラチェク」の名前をメモし、ようやく十年越しに著作を読むに至ったのだ。

そう、私は前置きも長いし行動に移すまでの時間も長い。

「善と悪の経済学」の感想

目次はこんな感じ。

  • 序章:経済学の物語――詩から学問へ
  • 第1章:ギルガメシュ叙事詩
  • 第2章:旧約聖書
  • 第3章:古代ギリシャ
  • 第4章:キリスト教
  • 第5章:デカルトと機械論
  • 第6章:バーナード・マンデヴィル――蜂の悪徳
  • 第7章:アダム・スミス――経済学の父
  • 第8章:強欲の必要性――欲望の歴史
  • 第9章:進歩、ニューアダム、安息日の経済学
  • 第10章:善悪軸と経済学のバイブル
  • 第11章:市場の見えざる手とホモ・エコノミクスの歴史
  • 第12章:アニマルスピリットの歴史
  • 第13章:メタ数学
  • 第14章:真理の探究――科学、神話、信仰
  • 終章:ここに龍あり

本編約500ページ、引用文献も100ページにびっしりと記してある。良き。

資本主義社会において、「経済」と「善悪」は対極にある。

いや「善悪」は「経済」における選択肢のひとつ「添え物のようなモノ」と、少なくとも私はそのように洗脳されてきた。

しかし現代の「経済学」および「資本主義」が辿ってきた経歴とはいかなるものか。

セドラチェクは、最古の文学「ギルガメシュ叙事詩」、「旧約聖書」、「新約聖書」、「古代ギリシャ」まで遡り、経済学の萌芽を炙り出そうと試みる。

我々の祖先が辿った哲学の時代、科学の時代を再検証する。

その帰結として本書が導き出すのは「現代の経済学」と「これまでの経済学」の差異、それすなわち「善悪」なのだ!というのが本書の前半。

どんな経済学も、結局のところは善悪を扱っている。経済学は人間の人間による人間のための物語を語っているのであって、どれほど高度な数学的モデルも、実際には物語であり、寓話であり、自分を取り巻く世界を(合理的に)理解しようとする試みだと言える。
――本書 7ページより引用

かつて経済は善悪と密接にあった。時代によっては儲けることが悪とされていたり、経済活動と道徳倫理は常に一体だった。

それがいつからどこからどうしてこうなってしまったのか、かなりの章を割き、文献を引用しセドラチェクは示してくれる。

乱暴に要約すると、産業革命以降、技術や数学が進化し、人類はそれまでの宗教や倫理や哲学と密接に結びついていた経済学を切り離し、経済と科学の統合へと向かう。不確定要素の塊である善悪の概念は現代の科学・数学では吸収できる代物ではないため徐々に亡き扱いとなる。そしてすべては数理モデルで予測解説が可能なのぜサイコー現代資本主義&経済学が爆誕、という感じ。

我ながら説明が酷過ぎて笑えてくるがスマン。本書では丁寧に説得力を持って説明されているから興味を持ったらゼヒ本編を読んでみてほしい。ホントしびれるから。

そして、前置きで私が長々書いた現代資本主義に対するモヤモヤの原因は、ここにあったのだな、となる。

人間なんてものは矛盾の塊みたいな存在なわけで常に移ろう。そんな奴らが巻き起こす経済活動をナゼ科学の力で何とかなると考えたか。

ニュートンは物理学の問題を解く必要があった。そこで独自の計算式を考案した。彼は数学をツールとして使い、観察した事実を数式化することによって研究を容易に進められるようにした。だが経済学は、しばしば正反対のことをしているように見える。つまり、数学にうまく適合するように現実世界(および人間)をモデル化している
――本書 414ページより引用
経済モデルの多くは、異なる文化、社会、歴史、宗教環境を一切考慮しない抽象世界に浮かんでいる。経済学はそうしたコンテクストを完全に切り捨ててしまった。だが文化、社会、歴史、宗教を理解せずに、人間のふるまいを理解することができるのだろうか。
――本書 434ページより引用

科学は現代の最大宗教である。

これは以前読んだ「サピエンス全史」で出てきた話だったがセドラチェクも同じような指摘をしている。

【読書感想】 サピエンス全史 ユヴァル・ノア・ハラリ | neputa note

ようやく読み始め、ようやく読み終えた。内容はあらすじにある通り、取るに足らない種の一種であった我々の祖先が、遺伝子を解し、神にとって代わり、新たな種を生み出すことも不可能ではない現在へ到達するまでの

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科学以前は「いわゆる宗教」や「神話」といったものが人々の信じる存在であり、先にも書いたが、それらが経済活動に対する「定め」を提示してきた。

そう考えると、現代の最大宗教「科学」が、現代の経済をすべて語れるとすることはごく自然な流れなのだろう。

問題は、われわれ人間のコアであり矛盾発生装置である「善悪」すなわち倫理道徳を排除というか経済の下に置いたことだ。

数理モデルで人々の経済活動を分析・予測する試みに多くの成功はあったのだろう。

だが善悪を考慮することを忘れた経済学は世界を恐怖のどん底に陥れてしまう。

リーマンショックのような恐慌はその最たるもので、2020年から大流行を巻き起こした新型コロナウイルスに対して現代の経済学は何を語っているのだろうか。

チェス好きの友人は、チェス盤の横に飲み物を置き、そのテーブルを「六五番目のマス」と呼ぶ。この六五番目のマスは、実際にチェス盤を除いた全世界だと言える。この状況は、分析アプローチを思わせないだろうか。私たちはチェスについて明確に説明できるし、チェス盤に置かれた駒の動きを分析することもできる。だが重要なことが起きるのは、最も大きなマス目、つまり六五番目のマスにおいてなのだ。そもそも、プレイヤーがいるのもそこである。
――本書 456ページより引用
結局のところ、モデルは虚構である。役に立つ虚構であることを願っているが、とにかく虚構であるにはちがいない。経済学者たるものは、その虚構性を認識しなければならない。
――本書 461ページより引用

さて前半部分で現代の資本主義経済およびそれを支える現代経済学の抱える矛盾や欠落を切り裂く刃を研ぎ済まして迎える後半部分は未来へ向けた話となる。

セドラチェクは、経済学は素晴らしい学問であり、すべての学問と密接にかかわるべきモノと語る。今のように社会学や哲学や宗教学などを下に置くのではなく。

すべては人間の行動に関する話しなわけで、ごくごく普通に考えればそうだろうと思う。

金儲けを望む一方で金を失うようなこともしたがるし、何の得もないのに善意で金を使ったり、経済とは無関係なものに純粋性を感じ崇めたり、人間の思考行動は広大で矛盾に満ち満ちている。

現代資本主義における効用の最大化を目指す場合において、善悪、つまり倫理を無視して良いとすることの最も大きな罪は、伴ってしまった犠牲だと思う。

結果として成長した、発展した。しかし、その過程において犠牲となる者がいた。

その犠牲者は果たして報われるのか?という話しだ。

善悪という概念を見ないものとしなければ発展できなかった現代資本主義のフェーズが行き着くところまでたどり着いた後の揺り戻しは、どこに着地するのだろうか。

善悪を無視した要因として「善は報われるのか」に対する回答を人類が発明できなかったことはあると思われる。

善が報われるには、ただ経済的なインセンティブが善行に対して設けられるだけでは意味がない。(善行をカモフラージュする悪行とのイタチごっこが目に見える)

善が報われる世界をどう発明するのか。

GDPの成長は万人にとっていいものではないことはもう既に明らかとなっている。

セドラチェクはすべての学問と経済学がいま一度むすびつきを取り戻し発展した先に、現代への答えがあると信じているのだろう。

私は本書を通じて、経済学は数学的な理解よりももっと幅の広い魅力的な物語だということを示そうと試みた。ある意味では、経済と経済学の魂を、アニマルスピリットを、拙いながらも伝えようと試みたとも言える。魂というものは、見守り、世話をし、育てなければならない。経済学には魂はあるし、それを失うべきではない。経済学者は現実の世界について何かを主張する前に、このことを認め、理解すべきだ。
――本書 483ページより引用

熱のこもった終章からは著者が抱く希望と熱い魂を感じた。

終わりに

経済学とはまったくの無縁の素人による感想文なので適切な説明となっていない部分もあったりするので、興味を持った方がもしいたら是非是非本書を読んでみてほしいのです。

私同様に資本主義ってなんぞ?ホントいいもんなの?という疑問を抱いている方にとって思考の幅をもたらしてくれると思う。

高度成長期以降の日本しか知らない私は現在の経済システムが当たり前で、他を知らないが故に苦しんだり悩んだりしていた部分がグッと楽になったように思ったりしとります。

人類の歴史は長いし世界は広いっすね。

ついこないだまで社会主義だった国とか、キューバとか今のうちに行ってみたい。できればしばらく住んで資本主義以外の経済システムを体感してみたい。

そうなると金がいるな。善悪とか言ってらんねえ。もっともっと金を稼がなければ!!

お後がよろしいようで。

長文・駄文お付き合いいただきありがとうございました。

著者・訳者について

トーマス・セドラチェク (Tomas Sedlacek)
1977年生まれ。チェコ共和国の経済学者。同国が運営する最大の商業銀行の一つであるCSOBで、マクロ経済担当のチーフストラテジストを務める。
チェコ共和国国家経済会議の前メンバー。「ドイツ語圏最古の大学」と言われるプラハ・カレル大学在学中の24歳の時に、初代大統領ヴァーツラフ・ハヴェルの経済アドバイザーとなる。2006年には、イェール大学の学生らが発行している『イェール・エコノミック・レビュー』で注目株の経済学者5人のうちの一人に選ばれた。本書はチェコでベストセラーとなり、刊行後すぐに15の言語に翻訳された。2012年にはドイツのベスト経済書賞(フランクフルト・ブックフェア)を受賞。
――本書より引用
村井章子(むらい あきこ)
翻訳家。上智大学文学部卒業。翻訳書多数。最近の訳書に、『帳簿の世界史』『イスラム国 テロリストが国家をつくる時』(以上文藝春秋)、『トマ・ピケティの新・資本論』『幸福論』『道徳感情論』(共訳)(い以上経BP社)、『じゅうぶん豊かで、貧しい社会』(筑摩書房)、『ファスト&スロー』(上下、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)など。
――本書より引用

【読書感想】善と悪の経済学 トーマス・セドラチェク ―現代資本主義の問題点を明らかにする一冊

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若い私は昔も今も愚か者

かつて私は「風邪をひくのはやることがない暇な証拠だ」という「トンでもクソ理論」を持論とする「トンでもクソ野郎」だった。

30代になってから、さすがにそのクソ理論を公言することの酷さに気づき、公言することはなくなった。年とともに性格が丸くなったこともあったと思う。

ただ運が良かっただけだったと思うが風邪を引くこともなく(引いても気づいていなかった可能性はある)、虫歯になることもなく過ごすことができていた。

だが40代に突入してから毎年のように何かしらの病を患うことになる。

「風邪を引くのはやることがない暇な証拠」

当時の自分に思いっきりかかと落としを喰らわせ、50時間ぐらい説教してやりたい。

かかった病は「頸部リンパ節腫脹」、「帯状疱疹」、その他原因不明の高熱だ。

昨年は幸い何の病にもかかることなかったが、コロナにおびえて過ごした。

いずれも年末の年の瀬も迫るころに発症しており、今年も何事もなくと願っている。

頸部リンパ節腫脹

これは、首の筋が膨れ上がり、40度以上の高熱が出て辛いといった症状で、実は幼稚園の頃に発症し入院していたことがあった。

とにかく解熱剤と抗生物質を投与しまくってもらい数日後に生還できた。

帯状疱疹

こいつはやっかいだった。

確か4年ほど前のことだ。

当時私は入籍前の現在の妻と共に銀座にいた。

なぜ銀座にいたか理由は覚えていない。

人は金がなくても銀座にいることがあるし、銀座も金がない人間を受け入れてくれるスペースぐらいはあるのだ。

我々が喫茶店で珈琲を飲んでいた時のことだった。

突如、背中の肩甲骨のあたりが猛烈に痛み出した。

しばらく座席の背もたれに背中を強く押し付けるなどして抵抗していたが、とうとう耐え切れず私は妻に言った。

「背中が痛いから帰りたい」

我々は東京の西のはずれに住んでいる。

久々に都心まで足を運び、優雅にカフェータイムを楽しんでいる場に最も相応しくないセリフのひとつであったのだろう。

妻は「?」という顔をし、私のセリフをスルーした。

痛みに耐えきれなくなった私はもう一度「背中が痛い。だからどうしても家に帰りたい」と、今度は懇願気味に言った。

自宅に戻り一晩やり過ごしたが一向に痛みが治まらなかったので病院に行った。

銀座から飛んで帰ってくるほど痛かったのだからすぐに病院に行けばよかったのだが、かつて頑強な体を自負していた私は余計なところで粘り強さを発揮したのだ。

ドクター曰く、「帯状疱疹」であるとのこと。

肩甲骨が痛いと思っていたが、厳密には肋骨に沿って疱疹がいくつも出ており、その付近が痛んでいるのだ。

「帯状疱疹」を発症する原因は興味深いものだった。

子供のころに「水疱瘡(みずぼうそう)」にかかったことがある場合、これは完全に完治するわけではなくウイルスが神経の周りに潜伏するらしい。

そして、大人になってから、何がキッカケかはよくわからんが、突然発症する。

そうすると発疹ができ、人によっては神経を直接攻撃されたような激痛にやられる。

うろ覚えで申し訳ないが、素人の私が記憶するドクターの説明だ。

そうか、私は水疱瘡にかかったことがあったのか、と思い後日両親に聞いてみた。

「覚えてない」

まあそんなもんだろう。

辻褄が合わないとメンタル的に良くないので、私はかつて子供のころに水疱瘡にかかった過去を持つこととして生きることに決めた。

ちなみに「帯状疱疹」が完治するまでに何だかんだで2か月ぐらいかかった。

終わりに

若い時調子こいても年取ると色々あるし気をつけようねとか、個々の病を広く書いてみようと思ったのだが、なぜか「帯状疱疹」のところで記憶が鮮明になりどうでもよい文章となってしまった。

新型コロナウイルスもあることだし、病は突然だけど、気を付ける人は気を付けるけど、そうじゃない人は気を付けないだろうから、私から言うことは特に無いという落ちのない話ですまない。

40代に入ってから毎年医者にかかるようになるヤツ【日記】