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序1 - 本記事の概要

今朝、シンガーソングライター「川本真琴」さんによるこのツイートが話題になっていた。

今日を過ごすあいだ、思いがけずこのツイートが脳を活性化しさまざまなことを考えた。

わたしは音楽の専門家でもなんでもない、ただの一消費者である。

カセット、CDの時代から音楽を聴きはじめ、サブスクが流行する今日まで音楽を楽しむ日々を送っている。

そんな一人の音楽ファンの立場からいろいろ思うこともあったので、言語化しネットの海へとブン投げる儀式を行いたいと思った次第。

序2 - 川本真琴さんと彼女のツイートに対するわたしの立場

とんでもない批判を繰り広げようとか、何か強目の偏った思想があるわけではない。

わたしは熱心なファンというわけではないが、デビュー直後、ブレイク時、その後から現在にいたるまで、川本真琴さんの音楽が好きである。

現在にいたるまで、他の人にはつくれない音楽をつくり続ける稀有なアーティストだと思う。

岡村ちゃんをリスペクトしているところもポイントが高い。

川本真琴が〈川本和代〉だった頃――デビュー前の秘話と当時のデモ集『No.1 Hippie Power』を語る | Mikiki

96年、岡村靖幸プロデュースのシングル“愛の才能”で鮮烈なデビューを果たし、現在はメジャー/インディーの枠組みにとらわれない自由な活動を続けている川本真琴。そのデビュー前、20歳のときに自身で作ったデ

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いま現在、アーティストとして生計を立て生きている人にとって、ここ10~20年の大きな変化はたいへんだろうと素人ながらに想像している。

楽曲政策やパフォーマンスに専念するのが難しい時代だ。

とくに、90年代の黄金期に成功体験がある人であれば、その落差に余計に戸惑うことは想像に難くない。

よって、ツイートの内容もそうだろうなあと同意以外の感想は何もない。

以上、好感、肯定のみが私が川本真琴さんおよび彼女が発信したツイートに対する立場である。

本題 - 音楽のサブスクは悪か正義か或いは……

全肯定なのに何をそんなにあれこれ考え言語化するほどのものがあるのか。

今朝の時点でわたしもそう思っていた。

思考が回り始めたのは、「サブスクは悪なのか?」というところから。

フィジカルから配信への過渡期

前述したとおり、現役のアーティストにとってはきびしい時代なのだろうと思いつつも、消費者にとっては毎月少額で幅広い音楽を楽しむことができる黄金時代なのだ。

わたしが本格的に音楽を聴き始めたのは90年代に入ってから。

レンタルのCDを借りてきてカセットテープにダビングするのが、わたしの周囲での作法だった。

働きはじめてからは自分のお金で毎月CDを買っていた。

お気に入りのアーティストが見つかると全作品を網羅的に聴くのがわたしの流儀。

多いときは月に10万円ぐらいのCDを購入し、ライブにもよく足を運んでいた。

そう考えるとサブスク全盛のいまは隔世の感がある。

実のところわたしはサブスクは利用していない。

理由のひとつは、わたしの好むアーティストがサブスクサービスに含まれていないことが多いこと。

もうひとつは、いまも変わらず行っているお気に入りを見つけ全作品を網羅的に聴くわたしの流儀はサブスクと相性が悪い。

楽曲の入手方法がCDからダウンロード購入に、プレイヤーが専用機器からパソコン&スマホに変わったものの、サブスクの恩恵とは無縁なのである。

サブスクが成長カテゴリとはいえ、わたしと同様な形で購入する人もけっこういるだろうし、フィジカルアイテムを手元に置きたい方もまだまだいるだろう。

選択肢が増えたのだと思えばよいことだと思うが、現在は過渡期。

流通経路が安定するまでのあいだ、発信側はこの大きなうねりに逆らうことはできない。

アーティストの価値は低下する

かつて新しい音楽をつくりだす優れた才能にふれることができるのは一部の特権階級だけだった。

雅楽は朝廷のものだったしクラシックは宮廷のものだった。

アーティストがその活動に専念するにはパトロンが欠かせない。

そのパトロンが一部の特権階級から庶民へとうつり大衆化する。

いま現在まで続いている、ファン全員がお金を投じ推しを支えるスタイルだ。

この音楽が大衆化する過程における変化はパトロンのみならず、「聴衆の数が増大化したこと」も大きな変化であると見る。

需要が高まれば供給側もその数が増やさなければならない。

つまり、発掘されるアーティストの数が増える。

ルネッサンス時代と2022年、年間デビューアーティストの数を比べてみればとんでもない差があるだろう。

数が増えれば相対的にアーティストひとり当たりの希少性は低下する。

またYoutubeや日本のニコ動など、誰もが低価格で配信できるプラットフォームが登場し、さらなる革命が起きた。

音楽業界が発掘したアーティストは、全世界に存在する才能のごくごくごく一部でしかないことがバレてしまったのだ。

無名の天才がどれだけ可視化されたことだろうか。

この先も才能を発掘・供給、あるいは自ら発表するインフラが成長し続けることにより、相対的にひとり当たりの希少性の減退は止めることができないのではないか。

音楽ビジネスにおいて希少性は収益に大きく影響することは想像に難くない。

終 - 結論というかまとめ

こんな感じのことを一日中考えていた。

結論としては、川本真琴さんのツイートはおおいに理解できるものであるし、一方で才能を披露できるインフラが充実するにつれ個々の取り分は減り続けるのが現実、というなんともお手厳しいものになってしまった。

これは一般人の妄想の域を出ない話なので、実際にどうなるかは分からない。

音楽がゲームや映像サブスクに大勝ちし全体のパイをぶっちぎりで広げていくかもしれない。

ネット界の勝者ゲーム業界からマネタイズのプロフェッショナルたちがこぞって音楽業界に鞍替えし収益構造に革命をもたらすかもしれない。

確かなことは、わたしはおそらくサブスクは利用しないし好きなアルバムを購入し続けるだろう。

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サブスクの功罪について ー 川本真琴さんのツイートに思うこと【日記】

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Photo by : TBSラジオ JUNK

序1 - この記事の概要

お笑い芸人「爆笑問題・太田光さん(以降、敬称略)」による統一教会に関する発言が毎週炎上している。

参院選挙中の銃撃事件からはじまった一連について、わたしのような一般市民が語れることは少なく、感想の域を出ないだろう。

だが太田光に関することについてはさまざまな思いが頭のなかを行き交うのだ。

どうにかこのモヤモヤを言語化し、わたし個人の精神を安定させたいことがひとつ。

そして、あわよくば同じようなモヤモヤを抱えた方の思考の一助となることがもうひとつ。

以上この2点を狙いとしてあれこれ書いてみたい。

序2 - わたしにとって「太田光」とは

わたしは「太田光」ウォッチャー

はじめて爆笑問題を知ったのは30年以上も前だろうか。

痩せ型でねこ背、ボソボソとしゃべり突如奇声をあげ、ところ狭しと暴れまわる。

若い頃からどこか陰のある「太田光」というコメディアンにわたしはおおいに魅了されてきた。

最初のデビュー当時にやっていたコント、一度テレビから消え新たな武器として引っさげてきた漫才。

どちらも「不快」と「快」を同時にぶつけてくるその独特なスタイルは唯一無二であると感じた。

テレビスターへの階段を一気にかけ上がり、爆笑問題をみる機会はますます増えていった。

そのなかでも、『爆笑問題のススメ』『爆笑問題のニッポンの教養』など、彼の内面が顔をのぞかせる番組に注目するようになる。著作なども読むようになる。

いまでは一週間のふりかえりの側面もあるラジオ番組(「爆笑問題カウボーイ」「爆笑問題の日曜サンデー」)で、彼の発言やふるまいに対する考えと、わたし個人が感じたことの答えあわせをする。

追っかけとまではいかないが、ほんのりキモくぬるく注目をつづけるそんなわたしは「太田光ウォッチャー」。

わたしのなかの「太田光」

太田光のキャラクター

ちょっとキモい章題だがグッとこらえておつきあい願いたい。

メディアを通じて知る太田光はわたしのなかで「こんな人であるよ」という個人的偏見とキモさを交えて披露してみたい。

わたしは爆笑問題が出ている番組以外でも「太田光」を感じることがしばしばある。

なにがトリガーなのかはなんとなく分かっている。

「笑い」と「悲哀」が同居する場面だ。

たとえば、人を笑わせるのに泣き顔のメイク、サーカスのクラウンなどが分かりやすい。

すこし前になるが映画『ジョーカー』をみていたとき。誰かを楽しませようとする姿に哀愁がただよう「ホアキン・フェニックス」に太田光を重ねていた。

そのあと暴力を選択したジョーカーと太田光は相容れないのだが。

太田光の言葉と暴力に対する姿勢

太田光はことあるごとに暴力や封殺を否定する。

いや暴言吐いたり着ぐるみにタックルしたりじゅうぶん暴力的じゃないか、と思う方もいるだろう。

だが太田光の真意としては、言葉も身体的な動作も、結果として「楽しい」につなげたいのだとわたしは思っている。

結果として「悲しみ」につながる、たとえば命を奪ったり、精神を追いこむこととは真逆に彼の思いはある。

だがこのあたりの境界線を絶望的に表現できていないところが悲劇であり、愛おしいところでもあるのだ。

太田光の笑いと悲しみの原点

あちこちで語られてきたので知っている方もいるだろう。

彼は友達づくりに失敗し、高校3年間のあいだ一言も発することなく過ごし、かつ皆勤賞だった。

「つらければ逃げればいい」――爆笑問題・太田光にとって生きることは居心地のいい場所を探し続けること #今つらいあなたへ(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)

太田光の高校時代はまさに暗黒時代だった。入学初日にクラスメートに話しかけるきっかけを見つけられなかった、たったそれだけで高校三年間、誰とも会話をすることがなかった。次第に鈍っていく感情。気づけば「死

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この時期に純文学や映画や演劇を孤独に吸収していたという。

圧倒的な孤独のなかにあって形づくられた感受性。それが、そのときの温度感そのままにいまも太田光のなかにあるのだろう。

不快さと快楽を同時に発するような表現や、楽しい空間への飢餓感は、そのような青春時代の裏返しだと感じる。

太田光が立とうとする場所

さまざまな人や意見がある状況において、いつでも太田光は孤独である人、弱い立場にある人の側に立とうとする。

強い決意をもって意志的に立とうとする。

お笑い芸人であるがゆえのジレンマもあるだろう。だがそうせずにはいられない衝動が見え隠れしている。

また「感性」に重きをおく彼は、権力やマウントのための経済力を小バカにしているフシがある。

逆張り、迎合などではない。

太田光が立つ場所というのはどんな場あってもあらかじめ決まっているのだ。

ここで危険を察知。

このくだりは何日でも書きつづけることができてしまう。

お笑い芸人としても、ひとりの人間としても大好きであるため書けば書くほどになってしまう。

その思いを伝えるのは今回の主題ではないので断腸の思いで次へ。

本題 - 統一教会に関する「爆笑問題・太田光」の発言および炎上に対し思うことを言語化する

まず、この炎上している案件に対するわたしの立場を僭越ながら申しあげたい。

太田光の発言について

  • 内容についてはまったく同意
  • ただし、言葉をあきらめてはいけないといいつつ、どうせ伝わらないと思っているフシについては同意しない

炎上している方々(以降、大衆とする)について

  • この感じの炎上はこの国の様式美とも言える伝統的所作なので否定しない。
  • ただし、多様な声に耳をかたむけることができる環境(ネット)があるにもかかわらず、いにしえの所作をくり返すことについては同意しない

両者に対して是と非がある。「八方美人」が私のスタンス。

個々について詳細を記す。

太田光に対する「是」について

これは、前述の「太田光が立とうとする場所」に記した通り。

今回の事件が起きてから、サンジャポできっと太田光は「信者たち」に目を向けるだろうと思っていた。太田光の多くのファンは予想どおりではないか。

末端の信者たちは、本人は真面目に信仰していると思われるが、社会的に見れば被害者であろう。

そして搾取され権限を持たない弱者であり、いまごろ教団バッシングの余波を毎日浴びせられているであろう被害者でもある。

予想以上にガッツリ深めに言及したのには驚いた。真意はわからない。だが彼のパートナーである光代社長が宗教に苦しんだ過去があったことも関係しているかもしれない。

起きたら消してしまうかもしれないつぶやき。私が宗教二世だったからかな。子供の時、育ての父が助けてくれて脱会したけど。今問題の教会ではないけど。親戚の中にも宗教の人いるから。だから全く関係ないアーリンが。私の犠牲になっているのかな。私は悲しいかな、宗教が嫌いな刹那な人です。

「是」とする理由、それはわたしも同じ思いだからだ。

今回の事件でわたしたちが行うべきは、いまの被害者を救うこと、未来の被害者を出さないようにすることが最重要と思う。

山上容疑者は、加害者の立場でもあるが教団による被害者でもある。

犯罪は裁きを受け罪を償わなければならない。

一方、被害者としては救済されなければならない。

安部元首相は、被害者の立場でもあるが教団に力を与えてしまった加害的立場としての疑いもある。

教団がいまでも問題を継続していることについては徹底的に解明し、もし関りがあったのであれば故人と言えど罪を償うべき対象だ。

一方、銃撃という理不尽な暴力に曝されてしまった被害者であり、亡くなってしまったが救済されるべき立場だ。

そして、現在の信者・元信者たちも同様である。

罪を犯していれば裁きを受けなければならないが、教団によるマインドコントロール、略取からは救済されるべき対象だ。

すべてはここを死守した上でのことではないか。

救うべき人を救うより悪を倒すことを優先しろというのはエゴを満たしたいだけの一人よがりに他ならない。

社会正義を言うならば、悪を倒すために救済は後回しは本末転倒である。

よって、この一点をブレずに掲げる太田光の発言について、わたしは賛同する。

太田光に対する「否」について

これは多分に憶測を含んでいるので、勝手に思って勝手にどうかと思っているだけかもしれない。

前述したが、太田光はその週の発言やその後の反響に関してラジオのオープニングトークの長い時間を利用して話すことがしばしばある。

だがこの件については「諦め」をその口ぶりから感じてしまう。

もともと「これだけが正しい」というような考えはしていない。割となんでも良いと思っていながらフザケて突っかかっていく印象だ。

正義マンが跋扈し、何を犠牲にしてでも正義は貫かれねばならないような世相に対し、引いていると言うか、諦めていると言うか、軽く絶望すらしているように感じている。勝手にだが。

民主主義が後退して久しい昨今。

じっくりお互いが落とし所を見つけられるまで、じっくり膝をつき合わせて話をする文化はとおのむかしに過ぎ去ってしまった。

いまは短い時間で場を支配すれば「論破」と称し、勝ちとなる。

多数決の勝負に勝てば、結果的に言うとおりになるんだからとすべき議論を避ける。

数の暴力、他の意見を封じる手法は、瞬間的な勝利に結びつきはする。しかし長期的にみると積み重ねすぎた禍根により滅び去ることを歴史は嫌というほど証明してきている。

その再現なきループを抜け出す手段として先人たちが発明したもののひとつが民主主義であろう。

いちおう、この国は民主主義を標榜する国家。民主主義とは、議論を尽くし、少数派が暗黙の受諾を容認する道を最後まで探り、最終的に決済するプロセスを経ることで、持続的な共同体を目指す手段である。

ネットで個々の声が可視化されやすくなった。結果、見えてきたのは反民主主義とおぼしき声、声、声である。

太田光は山下容疑者が選んだ手段、つまり暴力を前に、たとえどうあっても我々は言葉を諦めてはならないと言った。

彼は山下容疑者の悲しみや無念を痛いほど理解していると思う。

銃撃事件があったあと、息詰まり落ち込んでいる様子が三週にわたってラジオから漏れ伝わってきた。

考えに考え、苦しみに苦しみぬいた上で、それでも「言葉を諦めてはいけない」と発したのだ。

だが、それと同時に「言ったところで伝わらないのだろう」という諦めも感じてしまった。

ネットという拡声器でそれなりの人数が反民主主義的なふるまいを見せるなか、絶望してしまう気持ちは分からないでもない。

ただ、もっとも多い層というのは「わざわざみんなに聞こえるように話さない人たち」である。

それが可視化されることがない限りはまだ分からない。諦めてほしくはないと、勝手ながら思っているのだ。

「否」というよりは、願望のようになってしまった。

大衆に対する「是」

テレビの生放送という時間や使用可能な言葉など様々な制約が存在する場において、複雑な事象に対するコメントを的確に行うことは、大変な技術を要することである。

正直、太田光がもっとも不得意とするものと私は認識している。

連日の報道でわたしたちは「教団憎し」一色だ。

ましてやネットニュースで知る層などは日頃から彼への関心はそんなに無いだろう。

そこにあの断片的な説明は、可燃性の高いハイオク燃料をぶち込むことにほかならない。

燃えるべくして燃えることをしたのだから、みな燃やしたいだけ燃やせばいいと思う。

ただし、法といういラインは守らなければいけない。

大衆に対する「否」

わたしたち大衆はいつも間違える。

ひとたび大きな出来事があれば、本質に迫ることや、未来につながる話しは後まわしだ。

大切なことは退屈なのだ。

「議論」という文化を持たないわたしたちは、目まぐるしく流れゆく情報の消費にいそしんでいしまう。

わたしたちが「当事者不在」を好むのは周知のとおり。

結果、当事者はいつも蚊帳の外におかれてしまう。

今回のことで言えば、当事者は加害者である山上容疑者、被害者である安部元首相、そして動機である本来のターゲットである教団。

しかし最も多い頻度で報じられるのはどの政治家が教団と接点があったか。

鬼の首でも取ったかのように「今日はコイツがやっていたのが発覚しました!」とやっている。

山上容疑者にもっとフォーカスしていい。

同じ事件を起こしてはならないと思うのであれば、現役および元信者を徹底的に追いかけるほうがよいはずだ。

また、政教分離や信教の自由はなぜ重要なのかあらためて見直すとともに、それらが曖昧なこの国の制度について議論すべきよきタイミングではないか。

太田光は、いまもっとも味方が少なく、さまざまな声におびえ、声を上げる手段を持たない信者たち、とりわけ二世や巻き込まれた人たちの側に立って発言しているだけなのだ。

わたしたちが見過ごしてしまっている人たちだ。

現行法の問題や歴史的経緯を直視せず、ただただ教団をカルトや反社認定したいだけの人からすると、太田光は「敵側」となるのだろう。

カルトや反社を認定するのは並大抵なことではない。

どの団体までアウトなのか、どの行為までがアウトなのか、それは誰がどう決めるのか。

もし何の議論もせず、感情的な「気分」で決めてしまうと今度は別の犠牲を生むことになりかねない。

太田光と大衆

太田光は「大衆」というものを信用していないとわたしは思っている。

と同時に信じたいとも思っているのではないだろうか。

もう10年以上前だったか、媒体を忘れてしまったが、内容は太田光がある大物政治家と対談したことについてのもの。

有事だったか原発だったか、テーマもうろ覚えで申し訳ないが、一国の宰相として決断を迫られたとき、あなたはどうするかという質問を太田光が投げかけた。

そうすると、その政治家は「国民の声をよく聞いて判断する」と答えたそうだ。

太田光は、ガッカリしたと話していた。

憶測だが、彼ははこう思ったのではないか。

  • この国において、大衆はいつも間違える。
  • ときに政治家はみずからの政治生命と引き換えに決断を下すと言ってほしかった。

太田光は読書家である。SF好きはわりと知られていると思うが、何でも読む。歴史モノや近代政治などもよく知っている。

わたしも歴史モノ、近代史など好んで読む。

「この国では、大衆はいつも間違える」という点について共感する。

わたしたちはいつも間違えるのだ。

ふだん、お上に任せっきりにしておきながら何かあれば一気呵成に感情任せに非難をはじめる。

そして、幕府が政府になっても、帝国主義が民主主義になっても、変わり身の速さは一級品。さも以前からそうだったかのように振る舞う。

日頃から政治的なことに参加意識が無いから簡単に変わることが可能なのだ。

責任感のない、無責任だからこそ成せるすべである。

そんな無責任な大衆の声に従って、果たしてより良い方向へと歩んでいけるかといえばあやしい。

コトが起きたときだけ感情的に声を上げはじめるわたしたちはいつも間違えてしまうのだ。しかもゼロか百の思考しか持ち合わせていない。階調がない。

しかしフランスのようになればいいとも思わない。

こんな無責任なわたし達だからこそ、世界史に類を見ない江戸時代のような長期にわたって平和な時代を築き上げた実績もある。

だが無責任な国民性のもとでは声なき犠牲を避けられない。

教団憎しをゴリ押し、宗教は悪の世界に変わったとき、わたしたちは素知らぬ顔でニューワールドを生きるだろう。

その陰で置き去りにされてしまった人たちのことなど忘れて。

ネットで見える化が進んだ21世紀において、さすがに日常的無責任無関心自己責任な伝統文化はそろそろあらためるべき時なのではないか。

おわりに

言いたかったことは、太田光は教団や政治家の擁護者ではないしけっこういいやつなんだぜということと、大きな人災が起きたときわたしたちは胸に手をあてて考える習慣を身に着けようや、という話しだ。

テキストで飛び交うワードはたいてい煽り要素がマシマシである。

人は感情が動くと行動する。

人が動けば経済も動く。

いちばん動かすのにコストがかからないのが「怒」である。

だから、視聴率やPVや部数をさばきたい人たちは煽るのである。

個人でやってる場合はただの承認欲求モンスターか愉快犯。そっとしておいてあげるのが吉だ。

勢いまかせに書いたのでまとまり悪いし長くなってしまった。

太田光憎しの人はまずこんな文章を読まないだろうし、ここまでお付き合いいただけた方はかなり特異な方だと思う。(失礼)

人の孤独と孤独が互いに混じり合うことって無いのだろうかと思うといつも悲しくなる。だがすこしでも良くなるようにと希望は捨てたくない。

せめてもの抵抗としてこの投稿をネットの海へ投げ込むのだ。

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統一教会に関する「爆笑問題・太田光」の発言および炎上に対し思うことを言語化する【日記】

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学生時代の不勉強を後悔することは大人のあるある。

正直に告白すると、私はかなりの数学アレルギー持ち。

いちから数学と向き合おうと決めたのだが、テキストに伸ばす手の重さと言ったらない。

「まずは数学を学ぶモチベをあげよう!」と、本書を手にとってみたのだが……。

『とんでもなく役に立つ数学』の概要

その問題、数学で乗り越えられます! 「渋滞学」で有名な東大教授が、私たちの生活をよりよくする「生きた数学」を、高校生に本気で語る。経済予測にまどわされないコツ、東京マラソンで3万人をスムーズにスタートさせる方法、人生の選択に役立つグラフ――受験のときにきざみこまれた苦手意識や、公式の丸暗記など、形式ばったイメージも一新。教科書からリアルな世界へ。使えて楽しい、数学の新たな魅力を届けます。
――本書より引用

とあるように、「渋滞学」でメディア出演もある西成教授による高校生に向けて行われた「数学の魅力」に関する講義を収録した一冊。

日本の渋滞、どうやったら解消できる?アリに学ぶ「渋滞学」 | 酒井真弓のDX最前線 | ダイヤモンド・オンライン

日本の道路は渋滞に満ちあふれている。渋滞の解消は、人間社会における重要な課題と言っても過言ではない。渋滞をなくす方法はないのだろうか?「アリの行列は渋滞しない」という事実に着想を得た渋滞解消法を提唱す

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感想と備忘録

数学アレルギーの原因

上記概要のとおり、本書の目的は、数学を学習することではなく、「数学の魅力」について知ること。

授業冒頭、西成教授が数学の魅力に取りつかれた子供時代の話しから多くの謎が解けることとなった。

現在、西成教授はあらゆる事象を解き明かす「武器」あるいは「道具」として数学を用いている。

子どものころは先生の言うことやルールに素直に従うことがなかったそうだ。

勉強も好きなように好きなものを学ぶと早くから決めていたとのこと。

先生だからといって、すべてを知っているわけではないということに驚いたし、わからないことをそのまま覚えるなんて納得できなかった。このとき私は、学校の勉強とは独立して、自分で自分のやりたいように勉強しようと心に決めたのです。
――本書18ページより引用

そんな少年が数学にハマりこんでいく。

これは想像だが、「数学は授業という形式で学ぶには不向きな学問である」、というひとつの証左ではないか。

おそらく、西成少年が数学を授業というチャンネル以外の接点を見出していなかったらどうなっただろう。

持ち前の反発心や頑固さが幸いし、数学を自ら学習したことにより、数学の本質的な魅力に早くから気づくことができたのではないだろうか。

つまり、私を含む大勢いるだろう数学アレルギーの原因は、「授業」という形式で数学を浴びたことによる、と私は断言(言い訳)したい。

私たちの暮らしと地続きの数学

西成教授は生徒たちとの質疑を通して私たちの生活の身近なところに数学があることを伝えていく。

「可能性」という言葉で私たちが頻繁に用いる概念も、つまりは数学の「確率」のこと。

私などは感覚的に可能性を案じるが、「確率」を用いるとぼんやりとした視界が一気にクリアになる。

迷いの多い人生だが、もう少し力強く歩んでいけるような気になるから不思議だ。

そして授業で耳にすると一気に鳥肌が立つこと受け合い「微分」と「積分」。

これらも数式や理論よりもまず、身近にある現象・事象に置き換えて説明がなされる。

これはスローモーションの映像の例えから。

時間をゆっくり動かし、ほんのちょっとの変化を取り出して、それを気長に細かく分け、変化に関係している要因を割り出すのが微分。そして、その、ほんのちょっとの変化、前のコマと次のコマとの差を、気長に積み重ねていくのが積分です。
――本書70ページより引用

これを用いることで自然界における様々な現象を解析し、予測へとつなげることができる。

人工衛星が宇宙に行って帰ってこれるのもその一つ。

その他、人間関係のトラブルや集団行動と絡めた「ゲーム理論」、津波警報の計算は「ソリトン理論」による、渋滞を解析する「セルオートマン」などなど、数学理論を身近なコトに結びつけて語られる。抵抗感なく耳を傾けることができる。

数学が社会に届くまでの道のり

これは大枠について。「数学」という学問とリアルな世界とがどのように呼応しているかの話し。これは遠くにある(と私が感じている)数学と、私たちの生活空間との関係性を話してくれている。

また数学に関連する分野である「物理」や「工学」の関係性や違いについてスッキリとした理解を得ることができる。

山から小さな湧水が、だんだん集まって大きな川になり、それが最後海に流れ込むよね。数学は、まさに最上流に位置する湧水のようなものです。
――本書120ページより引用

なるほど。

その湧水をいろいろな要素と結びつけて、より現実的に育てていくものが物理で、さらに実際の応用を意識した研究が工学。それが社会に流れていき、私たちの社会にたどりつくのです。
海に流れた水は蒸発して大気中に出ていき、雨になって山に戻ってきますが、このような大循環は、数学と社会の呼応にもあてはまります。
――本書120ページより引用

私たちの生活を便利にしたり命を救ったり安全を守ったりする実社会のおおもとには数学→物理→工学の流れがあり循環しているのだ。

そしてその源泉は「数学」。

つまり数学の進化なくして実社会の発展はないと言っても言い過ぎではないのでは。

ふと思ったけど、研究開発費が現象まっしぐらの日本は大丈夫なのでしょうかね???

社会問題を数学で解決する

西成教授の代名詞ともいえる「渋滞学」についても多く語られている。

これまで何度かメディアで説明を見聞きしたことがあったが、分かったような分かっていなかった私。

科学の対象となりにくい人間の行動をいくつもの数学理論を用いて挑むわけで話はたいへん難しくなるはず。

それが、「数学に苦手意識を持つ学生に向けた話し」という難易度で読むことができるのだからありがたい。

まず渋滞とはどういった現象であるかを物理学を用いて解析し、渋滞の事象をセルオートマンで表現する。

計算を重ね「渋滞吸収車」という解を導き出す。

読んでいてワクワクする。

最後は学生とともに、3万人が参加する東京マラソンのスタートをいかにスムーズにできるかに挑む。

これは、ガッツリ数式を使って解決を試みており、私は完全に置いてけぼりとなってしまった。

だが、本書を読む前と違うのは、数式に対するアレルギーではなく、理解できない悔しさが勝っていたことだ。

一から数学を学びなおし、この最後のくだりはぜひ読み返したい。

無駄学

西成教授は数学と並行して「無駄」についても研究をしているとのこと。

示唆に富む話だった。

教授は「無駄の反義語」を生徒たちに問う。

しっくりしたモノは無い。そもそも無駄の定義自体もしっくりくるものがない。

また、「世の中無駄だらけ」「この世に無駄なものはひとつもない」という相反する意見が共存している。

結論として教授は以下のように説明する。

つまり、「いつまでに役立つのか」、という期間を設定ないと、無駄かどうかは決められないのです。世の中無駄だらけ、という人は、この期間設定が短く、世の中無駄なものなんて何もない、という人は期間設定が長いのです。
――本書223ページより引用

私たちは成果と結びついて初めて「無駄ではない」と判断する。

現時点で成果が出ていない、あるいは失敗している場合は無駄となるが、さらにその先に成果が生まれれば無駄ではなかったといえる。

期間設定をどこまでと定めるかによるという話、なるほど。

そして、この無駄学の延長として、私たちの社会を構成するシステム「資本主義」へと話しが進む。

社会システム「資本主義」の話

これはたまたま並行して読んでいる『資本主義リアリズム』という本と関連する話で刺さった。備忘録として記しておきたい。

いわゆる「西側」と分類される地域で長いこと人間をやっていると「資本主義って実際どうよ?」という疑問にぶち当たる。

そもそも資本主義は「地球の資源は無限」が前提のツッコミどころ満載「永続的利益最大化計画」である、と私は認識している。

ただ無知な私はツッコミ方が分からない。

西成教授の話はそのあたりの疑問にいくつかヒントを与えてくれるものだった。

223ページ以降から箇条書きの引用でメモを残す。

  • 現在の資本主義が人類の社会システムの最終形態なのかというと、このままいけるとも思えない。
  • 現在のシステムは、すべてにおいて「経済成長」を前提にした仕組みで成り立っています。
  • 1972年にローマクラブが出した報告書「成長の限界」では、このまま人口増加や環境破壊がつづけば、今後百年以内に人類の成長は限界に達して世界は危機に陥る、と書かれてありました。
  • 成長一辺倒のシステムは、地球が有限である限り、いつかは破たんします。
  • そこで、経済成長なしでやっていけるシステムは可能かどうかという議論が、以前から世界でなされているのです。

ちょっと想像してみれば確かにそうだ。優秀な方々はすでに新しいシステムを生み出そうと頑張っているのだ。

実際にはどういった案があるのか、その辺も語っている。

  • ゼロ成長社会というと、個人がチャレンジ精神をなくして社会の創造性が減退していくような暗いイメージがつきまとう。
  • 微分方程式論によれば、ある量が時間とともにどのように変化していくかは、①いずれ一定の状態に落ち着く、②無限に増えつづける、③振動状態になる、という3つのパターンになります。
  • 第3の「振動」状態、これに対応する経済システムというのはありえるのではないか。(振動経済)
  • 平均的には成長率はゼロですが、あるときはプラスで、あるときはマイナスになるのを周期的にくり返す。
  • 景気の波というのは、もうちょっと長い周期で来る。
  • トータルで上昇している。
  • もうちょっと小さな振動で、トータルで上に向かわない、成長率0パーセントで、小さくゆらゆらしている、そんなことができないかなとイメージしています。

実際にとか具体的にという話しを現時点でするのは野暮だろう。

いまの資本主義が生み出す弊害は「成長を常とするところ」にその原因の多くがあると考えている。

であれば、この「成長を常としないモデル」は大きなヒントになる気がする。

おそらく新たなシステムが生まれたとしても新たな弊害が生まれるだろう。

だが人類が真に成長させるべきは「経済」ではなく「システム」だろうと気づかされる。

消費しきれない生産性を発明できたとして喜ぶのは投資家やボードの面々だけだろう。

持続的で幸せな人の数を最大化できるシステムが良いと思うのだがどうだろうか。

まとめ

本書を通じ、本来の私の目的は達せられたと思う。

なぜなら読む前にはミリも存在しなかった「数学を学ぶ覚悟」を決めることができたから。

私のような数学アレルギー持ちで必要なのに学ぶ勇気を持てなかった人間をこうも変化させる『とんでもなく役に立つ数学』はとんでもなく役に立つので興味がある方はぜひぜひ読んでみてほしい。

『とんでもなく役に立つ数学』 西成活裕 【読書感想・備忘録】

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キッカケ

本書を手に取る要因として、先日の参議院選挙中に起こった事件があったことは否定しない。

【日記】銃と民主主義 | neputa note

ショックの大きい日だった。この安倍元首相という人物に対し尊敬や惜しまれる思いなどは無い。むしろ、私が信じる民衆主義、法システムを戦後最も破壊した首相であり、一日も早く政界から退場してほしいと願う人物で

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先日のこの日記を書いた時点では容疑者の動機について何も明らかになってはいなかった。

その後、事件の背景が少しずつ報じられるなか、「テロ」というワードに違和感を感じた。

テロリズムとは、ある政治的目的を達成するために、暗殺、殺害、破壊、監禁や拉致(らち)による自由束縛など過酷な手段で、敵対する当事者、さらには無関係な一般市民や建造物などを攻撃し、攻撃の物理的な成果よりもそこで生ずる心理的威圧や恐怖心を通して、譲歩や抑圧などを図るものである。政治的目的をもつという意味で単なる暴力行為と異なるが、それらの目的には、政権の奪取や政権の攪乱(かくらん)・破壊、政治的・外交的優位の確立、報復、活動資金の獲得、自己宣伝などさまざまなものがある。これらテロリズムを行う主体をテロリストといい、個人から集団、あるいは政府や国家などが含まれる。

結果として社会に恐怖をもたらした場合、とりあえずその事件は「テロ」とする傾向を感じる。

「テロ」は、それなりにインパクトのある言葉だ。

穿った見方で恐縮だが、販売部数、視聴率、PVを稼ぐ目的において出来れば使いたい言葉なのではないか。

実際この事件の容疑者は明確な社会への影響という計算はあったのかもしれない。

まだ裁判は行われておらず何も明確なことは無いのであくまで個人の勝手な想像である。

カルト宗教二世、家族の自殺、親の破産、一家離散という壮絶な人生を経てなお、何かしらの「救い」にめぐり合うことができなかった人間が引き起こした事件、として捉えてみると「テロ」というより「復讐」という側面が強いのではないか。

結果として暴力へと至らざるを得なかった理由、「精神の決壊の部分」に私は強い関心がある。

このギリギリのところに私は他人事ではないという思いがあり、それが本書を手に取るキッカケとなる。

本題、「平成元年のテロリズム」について

元号が「平成」から「令和」へと移り変わってから3ヶ月の間に社会を大きく揺るがす事件が立て続けに起こった。

事件の詳細については、リンク先のWikipediaのページを参照してほしい。

本書はこれら事件を詳細に追ったルポタージュである。

また著者はこれら事件を2つの切り口でまとめている。

ひとつは、平成から日本社会が先送りにしてきた問題が事件の背景にあること。

これは引きこもり問題や就職氷河期など平成から続く社会問題が事件に少なからず影響があったと指摘している。

もうひとつは、『「社会全体で考えるべき」事件こそが、テロリズムとして捉えられる』としていること。

この新たな定義に疑問があるが、いずれの事件も社会を恐怖へと陥れる結果となったが、そもそも当事者に「テロリズム」という目的はあったのか。

それは本書の丹念な取材結果が物語っている。

テロリズムではないと。

いずれも、個人的(あるいは家族的)な問題を孤独の内に抱え込み、精神の臨界点を迎えてしまった者たちによる不幸な帰結である。

個人によって異なるが人間が耐えうる精神的負荷には限界がある。

その限界を超えると誰しも「壊れるか」か「暴力に向かう」。

後者の場合、さらにその対象が己自身(自殺)か、他者に向かうかで別れる。

これは、いかに幸せな人生を送ってこようとも、どれだけ豊かで広い心を持っていようとも、その人の限界まで追い詰められれば誰にでも同じことが起こる。

「自分は違う」と思う人は、起こりうる理不尽についてもっと、もっと、もっと想像してほしい。

事故に遭う、事件に巻き込まれる、誰一人信用ならない状況、なんでもいい。

それは明日あなたに降りかかることかもしれない。

私自身、強い精心を持ち合わせた人間ではない。

そして気が変になるほどの憎悪を抱え生きた時期が長らくある人生だった。

本書にあるような事件を耳にするたび「あれは自分だったかもしれない」という思いが脳裏をかすめる。

追い詰められていく人生の分岐点において、「救い」と出会えるルートは思った以上に限られている。

私は、奇跡とも言えるまったくの偶然の出会いにより、自殺ないし他殺といった暴力へのルートを避けることができた。

人の世は不平等で成り立っている。

私は幸運、偶然に巡り合えなかった者は不運。

そして、不運の者が引き起こす凶行により幸運の側にいた者が不運の側へと転落する。

永久に生まれる火の付いた爆弾を押し付け合うような社会構造から逃れる手立ては無いのだろうか。

いつまた不運の側に墜ちるか分からないが、いま幸運の側にいる私は後ろめたさを消し去ることができない。

いわば自己満足でしかないのだが、「救い」へのルートがあまりに限られている現状を少しでも変えることができないかと考える。

その一つとして、ひとりでも多くの人が「ニュースの事件」と己の人生が地続きであることを認識してほしい思いで、拙い文ではあるがこのように書き散らしている。

なぜ地続きと認識するべきと思うかと言えば、それは事実であるから。

そして、他人事・無関心の層が薄くなり、共同体としての意識の層が厚くなれば、追い詰められた者が救いにたどり着くルートが増えるからだ。

いま私にある幸福が理不尽に奪い去られ孤独に憎しみをたぎらせるだけの人生に再び転落したらもう二度と這い上がれないのではないかという恐怖がある。

夢に見てしまったあとはしばらく立ち直ることができない。

なぜなら分厚い無関心の空気を痛いほど知っているからであり、最後はヤケクソにならざるを得ないと想像できてしまうから。

吐いて捨てるほど理不尽あふれる世界で自己責任が持てはやされるのは悪い冗談にしか聞こえないのだが、どうだろうか。

『令和元年のテロリズム』 磯部涼【読書感想・日記】

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ショックの大きい日だった。

安倍元首相 死因は1発の銃弾による失血死 | NHK | 安倍元首相 銃撃

【NHK】奈良市で演説をしていた安倍元総理大臣が銃で撃たれて殺害された事件で、司法解剖の結果、死因は1発の銃弾が左右の鎖骨の下の動…

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この安倍元首相という人物に対し尊敬や惜しまれる思いなどは無い。

むしろ、私が信じる民衆主義、法システムを戦後最も破壊した首相であり、一日も早く政界から退場してほしいと願う人物であった。

だが、ひとりの人間が亡くなってしまうことは大変な悲劇であり、ましてや暴力によるものとなればこれほど痛ましいことはない。

心よりご冥福をお祈り申し上げる次第。

何が「ショック」だったのか。

ショックだったのは、「銃」である。

まず世界の安全な国ランキング上位に入るこの国で市民による銃撃事件が起きたこと。

銃というものは、瞬時にして生命を奪う以外にその存在理由を持たない。

そのことを強く認識したのはかつて読んだ中村文則の『銃』である。

『銃』 中村文則 【読書感想・あらすじ】 | neputa note

銃 中村文則 あらすじと感想。雨が降りしきる河原で大学生の西川が出会った動かないくなっていた男、そのの傍らに落ちていた黒い物体。圧倒的な美しさと存在感を持つ「銃」に魅せられた彼はやがて、「私はいつ

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暴力団や警察官による発砲は近年でも起きているが、(まだ断定されているわけではないが)一般市民とされる人物による銃撃事件が起きたことの衝撃は大きい。

続いて、民主主義が物理的な暴力に晒されたこと。

犯人の思想や動機はわからないが、起きたことの結果を外形的にとらえれば、

「銃」が民衆主義の象徴ともいえる「選挙」期間中に選挙活動に参加していた人物を撃ち殺した、

というものだ。

民主主義が暴力にさらされることは起こりうる。

日本に民主主義をもたらした国「アメリカ」においても、先の大統領選挙の結果を覆そうとホワイトハウスが襲撃を受けたことは記憶に新しい。

私は民主主義を信じている。

悪意の人物が権力を握った場合、民衆の力によってリーダーを代えることができるシステムは、人類が生み出した政治システムのおいて完全ではないものの今のところ最も優れていると思うからだ。

独裁政治体制ではそうはいかない。

昨今の日本においては権力の側が権力を持ってして民主主義を破壊することが繰り返されていた。

私は、これは法のもとに集う民衆に対するある種の「暴力」であると認識している。

だが、選挙というシステムが機能する限り、これは行きつくところまで行けばいずれ是正されるものと信じている。

だが、今回その選挙の場に「銃」という物理的な暴力が登場した。

民主主義の国家において、暴力は権力の側の専権事項である。

その構図を逆転するこの出来事は、権力をはげしく刺激するだろう。

この刺激に対する反応がどういうものとなるのか、私は不安でならない。

日本という国で暮らす人々は私も含めどんなコトも風化させる能力に長けている、と思っている。

良くも悪くも。

悪い方を見ると、その忘却の力は出来事を執念深く忘れない者たちにとって利用されてしまうのではないかという懸念だ。

もうひとつ、犯人に対して。

裁判が行われるまでは分からないが、単身で大きな事件を引き起こしたことは事実だ。

かつてオウムに集った若者たち、秋葉原の駅前、相模原障碍者施設で殺りくに及んだ犯人。

対象が特定人物か無差別であったかは異なる。

また動機や経緯もまた異なるだろう。

だがいずれも暴力に行き着いてしまった者たちだ。

人知れず堕ちていく者たちに対し我々はあまりに冷たい。

自分がそちら側に堕ちてしまう可能性に対する想像力に乏しい。

「異常なもの」として遠ざけて見えないモノにしてしまうのだ。

ほんの少しでも想像し共感することができれば、暴力に行き着く者を救い出せはしないものかと思うのだが、みな誰よりも忙しく余裕などない。

また自由競争を奨励する社会は脱落するものと向き合うメリットが薄いのだろう。

堕落しようが暴力に堕ちようが知ったことではない。

ヒドイ日だった。

そして私はきっとすぐに忘れてしまうのだろう。

だが、選挙だけは何があっても何が起きても行こう。

【日記】銃と民主主義

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『You Don't Know Me』の概要

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Photo by:BBC Courtroom

英国Londonの「法廷」が主な舞台。

主人公は車のセールスマンである青年。

法廷における立場は「被告人」。

理由は後述するが、彼は「South London」で暮らす「黒人」であることを付け加えておく。

4話完結の短いドラマだが一話一話が濃くて重たい。

ドラマは検察による物証陳述でドラマは幕を開ける。

列挙された証拠はいずれも「被告が被害者を拳銃で殺害した事実」を十分に裏付ける内容だ。

これは主人公が終身刑の審判を受けるまでの物語かと思われる。

だがその安易な予想は被告側の最終弁論で鮮やかに打ち破られる。

被告は弁護士を解雇しており自ら証言台に立つ。

彼の主張は「無罪」。

そして、「証拠というものは検察にとってすべてであるが、証拠だけでは真実を知ることはできない」と指摘する。

ここから長い長い最終弁論が始まる。

このドラマは法廷における彼の陳述を背景に、その時々の状況が映像で映し出される構成となっている。

そして視聴する私たちは、証拠は真実を裏付けるものとは限らない現実を突きつけられる。

この事件は人間関係やコトの次第が複雑に入り組んでいる。

ともすれば作為あるいは思考実験のような側面が見え隠れする。

だがしかし、演者たちの見事な演技、配慮の効いた演出がリアリティを最後まで維持してくれる。

絶望的とも言える物証の裏に隠された背景が検察側の主張とは異なる形で一つ一つ明らかにされていく。

非常にスリリング、とにかく見応えがある。

グイグイと引き込まれる展開が続くため、一話60分がアッという間に過ぎ去る。

概要や主な見どころは以上。

予備知識なくとにかく視聴してみることをお勧めしたい。

以降は補足説明と感想を記す。

ここからはドラマのネタバレを含む内容となるので悪しからず。

ドラマの舞台「London」に関する補足

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Photo by : ロンドン・アイ - HowTravel

普通に暮らしている若者が、こんな複雑な事件に巻き込まれるものなのか?

Londonの警察は無能なの?なぜギャングを放置してるの?

Londonは私がかつて暮らしていた町でもあるので語れる範囲で補足説明を試みたい。

また「South London」「黒人」というワードを敢えて入れた理由についても触れる。

Londonのエリアについて

ドラマ内で「North」「South」というワードが登場する。

Londonの南側は古くから労働階級の人々のエリアであり比較的黒人が多く住んでいる。

この South - North の大まかな分岐線はテムズ河。

ステレオタイプな表現をすると、つまり主人公たちが暮らすSouth Londonは貧困率が高く、ギャングのような人々が多く暮らしているエリアとなる。

犯罪について。

私は現在東京で暮らしている。

数字ではなく印象ベースの話しで申し訳ないが、治安に関してはLondonで暮らしてい頃と比較すると俄然いまの東京の方が安心感がある。

かつて階級社会であった日本は戦後、一度リセットがなされたものの、再び経済格差が広がりつつある。

だが英国は一貫して格差・階級社会の大先輩。

貧する者がいるのは当然のこと、その階層における事件やトラブルはあたかも自然現象であるかの如く放置されている。

何が言いたいかと言うと、South Londonで暮らしている黒人の男性がギャングたちのトラブルに巻き込まれて命が危ないと警察に相談したとして果たして真剣に取り合ってもらえるのだろうか?

こういった背景を想像してみると、このドラマにおける個々のエピソードは起きうる事実として捉えることができるのではないだろうか。

【2019】ロンドンの治安は最低最悪!?危険エリアマップ【まとめ】 | Minimal Traveler!

世界中から多くの人が集まる大都市ロンドンは、世界中でワースト100位に入るほど治安の悪い都市です。ロンドンの危険エリアや防犯のポイントをまとめました。

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『You Don't Know Me』の感想

印象的なシーン

Council Flats

主人公とカイラの最初のデート(カルボナーラをふるまう)のあと、彼女を自宅まで送り届けるシーン。

カイラの住まいは「Council flats(以降、公営団地とする)」だった。

彼女は経済的に苦しいのだと察してしまった。

東京では「タワマン」と称し富の象徴である高層建物。

だがLondon郊外においては逆である。

公営団地が立ち並ぶエリアは空気が違う。

映画『トレインスポッティング』にも登場するアノ感じ。

貧しさと犯罪をイコールで結ぶことは間違っているとは思う。

だがどうしてもトラブルが起きやすい環境であることは拭い難い事実であろう。

社会でまっとうに生きる立場を獲得できた主人公とは生きてきた環境の違いが彼女との間に存在することを象徴づけるシーンだった。

カイラの言葉

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Photo by : You Don't Know Me - Media Centre

車にいたずらしている子供を主人公が𠮟りに出ようとしたシーン。

カイラは「彼にもきっと事情がある」と止めた。

そして、叱りに行くなら別れるとまで言い放つ。

そう、事情があるのだ。

「トラブルや犯罪を起こすようなヤツらは自業自得、自己責任」、と言える方はとても幸せな環境で生きている証であり、それがこの先も続くことを願う。

一方、ドラッグを売ったり暴力に身を置く者たちは、生まれたときからそうなりたかったのだろうか?

ハイハイから立ち上がれるようになり、言葉を覚え話し始めた頃からそうなりなかったのか?

カイラは、それぞれが抱える避けがたい現実というものが、この社会には存在することを主人公に分かってもらいたかったのだ。

主人公の母「Abebi」

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Photo by : You Don't Know Me - Media Centre

彼女が登場するエピソードはいずれも強く印象深い。

主人公の同級生カートをイジメから助け、カイラを家族同様受け入れ、温かい食事をふるまう。

彼女が声をかけ手を取り合って祈りを捧げるシーンは、彼女の人生観や家族への愛が存分に表現される場面だ。

カイラは、主人公が持つ優しさの理由は、一日も欠かすことなく愛を受けてきたからだと指摘する。

その愛情を注いだ人物こそ、母「Abebi」である。

人類が今日まで続いてこれたのは、名のある英雄や偉人などのおかげなどではない。

きっと彼女のような人たちがいたからこそだと私は思っている。

ドラマを観終えて

このドラマは、「証拠による立証の限界」「法と倫理のジレンマ」「経済格差による社会構造問題」などいくつかのテーマを描いた作品だと思う。

事件に巻き込まれた主人公、彼の家族、カイラは法の下では加害者である。

そして、殺された売人ジャミル、彼のボス、カムデンで主人公に撃たれたギャングなど彼らが行っていることも同様、社会における加害行為であろう。

あなたはどの立ち位置で見るのか、この作品はそれを問うているのだと私は感じた。

すべてを観終えたとき、私はただただ悲しかった。

このドラマは「悲劇」だと感じた。

主人公たちやギャングたちみなみなが可哀そうでならなかった。

このドラマの作り手の根底に深い怒りと悲しみを感じるのだ。

そして温かい部屋でこの作品を観ている私はたまたま運がよかったのだとも。

『You Don't Know Me』を面白いと思ったらぜひこちらも

『ある告白の解剖』 Netflixドラマ

こちらも先日観た作品で、『You Don't Know Me』と同様に法廷を主舞台とした作品。

かつて不倫関係にあった二人の別離後に起きた性行為がはたしてレイプであるかを問う裁判である。

性行為における同意をの有無を立証する難しさ、 政治家として父として優れた人物とされた男の正体、物語の背景にある検察官のロングストーリーなど見どころ満載の法廷劇。

おすすめです。

『テロ』 書籍・戯曲

打って変わってこちらは小説。しかも、戯曲の台本という体裁のめずらしい小説作品。

著者はドイツの現役刑事弁護士であり小説家でもある「フェルディナント・フォン・シーラッハ」。

裁判劇である。

対象となる事件はドイツ国内で起きたある架空のテロ事件について。

ハイジャックテロにより164人の乗客を乗せた旅客機が7万人の観客がいるスタジアムに突っ込む。

追跡していた少佐は指令に反し旅客機を撃墜した。

独断で164人より、7万人の命を優先したのだ。

人間の尊厳に重きを置くが故に生じる矛盾を突くのが現代のテロである。

人間の尊厳をもっとも尊重すべきとする我々はどうすればよいか。

『You Don't Know Me』の結末を観て、真っ先に思い浮かんだのがこの小説だった。

同様に結末が「有罪」「無罪」の2パターン用意されている。

つまり選択は私たちに問われている。

さまざまな国で舞台化され観客に評決を問うなど興味深い試みがなされたようで、こちらの記事に情報を掲載しているので興味があったらぜひ一読を。

『テロ』 フェルディナント・フォン・シーラッハ 【読書感想・あらすじ】 | neputa note

個人的にいま最も熱いのが「フェルディナント・フォン・シーラッハ」である。いや、これまでの読書歴においてナンバーワンであるといっても過言ではない。全作を読破しよう!とデビュー作から読み始め、本作『テロ』

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さいごに

映画ドラマ小説問わず、個人的に最も惹かれるのは法廷ミステリである。

社会を構成し生き延びてきた私たち人類が、社会の規律を維持する装置として発明した「裁判」。

「人を裁く」という神の領域に足を踏み入れるにあたり、私たちは法・倫理・哲学・医学・科学などありとあらゆる知見を持ってのぞむ。

法廷は人知の集大成の場であると認識している。

そのような場で繰り広げられる出来事は軽犯罪であろうと大事件であろうと興味深い。

加害者としてか被害者としてかは分からないが社会に身を置くものである以上、私を含め誰もが当事者の可能性がある。

本ドラマは観る側に多くを問いかける内容であり非常に考えさせられる作品だった。

拙い個人的な文章を最後まで読んでいただき深く感謝申し上げたい。

またおもしろい法廷ミステリ作品などをコメント、Twitter等で教えていただけると泣いて喜びます。

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