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『迷宮』 中村文則 【あらすじ・感想】

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あらすじ

胎児のように手足を丸め横たわる全裸の女。周囲には赤、白、黃、色鮮やかな無数の折鶴が螺旋を描く ――。都内で発生した一家惨殺事件。現場っは密室。唯一生き残った少女は、睡眠薬で昏睡状態だった。事件は迷宮入りし「折鶴事件」と呼ばれるようになる。時を経て成長した遺児が深層を口にするとき、深く沈められていたはずの狂気が人を闇に引き摺り込む。善悪が混濁する衝撃の長編。 — 本書より引用

読書感想

読みどころ

  • ある女性との出会いをきっかけに、過去の未解決事件にはまり込んでいく男を描いたミステリ仕立ての文学作品。
  • 内面に暗部を抱え、そんな自分を始末してほしいと願う者たちを惹きつける不思議な魅力を秘めた事件と、それに引き込まれる青年の葛藤を描いている。
  • さまざまな意味にとれるタイトルの「迷宮」という言葉を巡り、深く読み込むと楽しめる。

主人公について

「新見」という青年。冒頭、子ども時代の記憶であろう。医師?のような男にこう語りかけられる。

世界は、君にだけ与えられたものじゃない — 本書より引用

そうやって生きていくとね、大人になった時大変なことになるんだ — 本書より引用

子どもの頃、彼は親に捨てられた。

そしてその体験は、東日本大震災のイメージと重なり、決して小さくはない恐怖として、心の奥底に刻まれているようだ。

震災のイメージ。僕達の風景は、僕達の心の準備など問題にしないタイミングで、いつでも一瞬で全く別のものに変容するんだ。……あの震災は、僕の中に、あの頃の無力な自分がいることを再認識させた。目を閉じてと優しく母に言われ、目を開けたら置き去りにされていた。広く残酷な世界でひとりで生きていくことの恐怖。 — 本書より引用

捨てられた体験ゆえか、彼は「R」という内なる人格を抱えるようになった。

Rとの関係を「奇妙なデュエットみたいに姿も見えない存在」と表現する。

そんな彼は「紗奈江」という女性に導かれ、深みへとはまり込んでいく。

紗奈江について

新見は紗奈江と偶然知り合い関係を持つようになる。 ある日、新見は探偵を名乗る男から紗奈江に関する話を聞かされる。

  • 前の彼氏が行方不明であること。
  • 彼女は日置事件という未解決事件の生き残りであること。
  • 偶然を装って近づいてきた彼女は事前に新見について調べていたこと。

などなど。 そして探偵は新見の印象としてこう告げる。

小さい頃から、きっと歪んでいた、根本的に、相当に。 そして大人になってから大変なことをする — 本書より引用

ん?どこかで聞いたような表現だ。

そして紗奈江は新見にこう告げる。

あなたに殺されれば、私の罪は消える — 本書より引用

彼女は事件の被害者遺族である。

罪とは何か?どんな罪を彼女は抱えているのだろうか。

日置事件について

美しい妻、嫉妬深いまじめな夫。その嫉妬はさまざまな形で家族を歪めていった。

家族の均衡が歪み始めると、その中で、最も弱い者にその重さがのしかかる。兄は当時14歳で、歪みの影響を受けやすい時期でもあった。 — 本書より引用

紗奈江の兄は、彼女に性的な欲望をぶつけるようになる。

家族の歪みが沸点に達しようとしたとき事件が起きた。

密室で起きた一家殺人事件だった。

妻は全裸で折り鶴に包まれるような格好で死んでいた。

その近くで夫、兄も死体となって発見された。

紗奈江は薬を飲んで眠った状態で発見された。

唯一の生き残りとして。

この事件を追いかけていたある弁護士は、この異様な事件を起こした犯人像についてこう述べている。

この世界において、密室という隠れた空間で、自己を100%解放して逃れ、また日常生活に戻った人間がいる。 — 本書より引用

そう、犯人は不明のまま、この事件は迷宮入りした。

新見はこの事件に強く惹かれはまり込んでいった。

謎解き

子どもの頃、新見は世の中で起こるさまざまな事件の犯人は、Rではないかと妄想した。 なぜならRは彼の負の部分すべてを請け負う存在だったから。

そして日置事件はまさにRが犯人であるべきと考えた。 なぜならその事件の暗さはまさに彼のそれと酷似している。

しかし大人になった彼からRは消えた。 そして今は紗奈江がいる。 彼は自分と紗奈江をこう表現する。

僕達は最高のデュエットだから — 本書より引用

当初、日置事件の犯人はRであるべきと考えた彼が、現在、消えたRの代わりに紗奈江とデュエットとなったと言うこの状態は、犯人が彼女であることを示唆しているように思える。

紗奈江は事件当時兄が睡眠薬をほしがり手渡したと言っていた。

また死にいたる薬の存在を、彼女は何度かほのめかしている。

子供の頃に見た、あの公園の巨大な風景を思い出す。僕はあちら側へ、あの残酷な世界の側へ行く。世界が人間に与えようとする、冷酷さの側へいく。僕はそれと一体化し、僕を凌駕する。世界の正体の中にいく。内面の傷など問題ではない。この世界は誰にとっても平等なのだ。誰が死のうと誰が生きようと、大したことなど何一つないのだ。 — 本書より引用

ある日自殺を試みた彼女を前に、新見は彼女と深いところでつながりを感じ、生まれてはじめて自己肯定感を得る。

だが物語の最後、紗奈江がコーヒーのコップを取り替える様を見て、ある考えが脳裏に浮かぶ。

彼女の幼い意識が、彼女の脳の迷宮の中に、兄の瓶を持ち替えた時の一瞬の記憶を押し込んでいるとしたら? 彼女は兄の欲望の強大な発露をそれを越えるほどの自然さと無邪気さで、自覚なく無意識に飲み込み始末した結晶ではないかと気付く。

この事件に引き寄せられたのは新見だけではない。

事件に関わり、後に探偵となった刑事、弁護士、精神科医、ライターなどなど。

紗奈江の兄のように内面に暗部を抱えそんな自分を始末してほしいと願っている者たちだ。

紗奈江はこの世に生まれてきてしまったそんな悲しき者たちを導く存在で、日置事件は伝説的な儀式のように映る。

迷宮入りし、幾人もの迷える者たちを惹きつけたこの事件について、明確な答えを明かさぬまま物語は終わる。

拙いミステリに秀逸な文学を混ぜたような作品でありやや消化不良だが、表紙の絵はとても好きだし、あれこれ迷いながら夢想するのは楽しかった。

設定が似ているので思い出した作品

そういえば、阪神大震災後の混乱から謎多き女性と翻弄される男が出てくる作品をかつて読んだことを思い出した。

著者について

中村文則(なかむら・ふみのり)
1977(昭和52)年、愛知県生れ。福島大学卒業。2002(平成14)年、「銃」で新潮新人賞を受賞してデビュー。‘04年「遮光」で野間文芸新人賞、‘05年「土の中の子供」で芥川賞、‘10年『掏摸』で大江健三郎賞を受賞。同作の英語版「The Thief」はウォール・ストリート・ジャーナル紙で「Best Fiction of 2012」の10作品に選ばれた。‘14年、日本人で初めて米文学賞「David L. Goodis 賞」を受賞。他の著作に『悪意の手記』『最後の命』『何もかも憂鬱な夜に』『世界の果て』『悪意と仮面のルール』『王国』『迷宮』『惑いの森』『去年の冬、きみと別れ』『A』『教団X』がある。
中村文則公式サイト
> https://www.nakamurafuminori.jp — 本書より引用

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