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統一教会に関する「爆笑問題・太田光」の発言および炎上に対し思うことを言語化する【日記】

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Photo by : TBSラジオ JUNK

序1 - この記事の概要

お笑い芸人「爆笑問題・太田光さん(以降、敬称略)」による統一教会に関する発言が毎週炎上している。

参院選挙中の銃撃事件からはじまった一連について、わたしのような一般市民が語れることは少なく、感想の域を出ないだろう。

だが太田光に関することについてはさまざまな思いが頭のなかを行き交うのだ。

どうにかこのモヤモヤを言語化し、わたし個人の精神を安定させたいことがひとつ。

そして、あわよくば同じようなモヤモヤを抱えた方の思考の一助となることがもうひとつ。

以上この2点を狙いとしてあれこれ書いてみたい。

序2 - わたしにとって「太田光」とは

わたしは「太田光」ウォッチャー

はじめて爆笑問題を知ったのは30年以上も前だろうか。

痩せ型でねこ背、ボソボソとしゃべり突如奇声をあげ、ところ狭しと暴れまわる。

若い頃からどこか陰のある「太田光」というコメディアンにわたしはおおいに魅了されてきた。

最初のデビュー当時にやっていたコント、一度テレビから消え新たな武器として引っさげてきた漫才。

どちらも「不快」と「快」を同時にぶつけてくるその独特なスタイルは唯一無二であると感じた。

テレビスターへの階段を一気にかけ上がり、爆笑問題をみる機会はますます増えていった。

そのなかでも、『爆笑問題のススメ』『爆笑問題のニッポンの教養』など、彼の内面が顔をのぞかせる番組に注目するようになる。著作なども読むようになる。

いまでは一週間のふりかえりの側面もあるラジオ番組(「爆笑問題カウボーイ」「爆笑問題の日曜サンデー」)で、彼の発言やふるまいに対する考えと、わたし個人が感じたことの答えあわせをする。

追っかけとまではいかないが、ほんのりキモくぬるく注目をつづけるそんなわたしは「太田光ウォッチャー」。

わたしのなかの「太田光」

太田光のキャラクター

ちょっとキモい章題だがグッとこらえておつきあい願いたい。

メディアを通じて知る太田光はわたしのなかで「こんな人であるよ」という個人的偏見とキモさを交えて披露してみたい。

わたしは爆笑問題が出ている番組以外でも「太田光」を感じることがしばしばある。

なにがトリガーなのかはなんとなく分かっている。

「笑い」と「悲哀」が同居する場面だ。

たとえば、人を笑わせるのに泣き顔のメイク、サーカスのクラウンなどが分かりやすい。

すこし前になるが映画『ジョーカー』をみていたとき。誰かを楽しませようとする姿に哀愁がただよう「ホアキン・フェニックス」に太田光を重ねていた。

そのあと暴力を選択したジョーカーと太田光は相容れないのだが。

太田光の言葉と暴力に対する姿勢

太田光はことあるごとに暴力や封殺を否定する。

いや暴言吐いたり着ぐるみにタックルしたりじゅうぶん暴力的じゃないか、と思う方もいるだろう。

だが太田光の真意としては、言葉も身体的な動作も、結果として「楽しい」につなげたいのだとわたしは思っている。

結果として「悲しみ」につながる、たとえば命を奪ったり、精神を追いこむこととは真逆に彼の思いはある。

だがこのあたりの境界線を絶望的に表現できていないところが悲劇であり、愛おしいところでもあるのだ。

太田光の笑いと悲しみの原点

あちこちで語られてきたので知っている方もいるだろう。

彼は友達づくりに失敗し、高校3年間のあいだ一言も発することなく過ごし、かつ皆勤賞だった。

「つらければ逃げればいい」――爆笑問題・太田光にとって生きることは居心地のいい場所を探し続けること #今つらいあなたへ(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)

太田光の高校時代はまさに暗黒時代だった。入学初日にクラスメートに話しかけるきっかけを見つけられなかった、たったそれだけで高校三年間、誰とも会話をすることがなかった。次第に鈍っていく感情。気づけば「死

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この時期に純文学や映画や演劇を孤独に吸収していたという。

圧倒的な孤独のなかにあって形づくられた感受性。それが、そのときの温度感そのままにいまも太田光のなかにあるのだろう。

不快さと快楽を同時に発するような表現や、楽しい空間への飢餓感は、そのような青春時代の裏返しだと感じる。

太田光が立とうとする場所

さまざまな人や意見がある状況において、いつでも太田光は孤独である人、弱い立場にある人の側に立とうとする。

強い決意をもって意志的に立とうとする。

お笑い芸人であるがゆえのジレンマもあるだろう。だがそうせずにはいられない衝動が見え隠れしている。

また「感性」に重きをおく彼は、権力やマウントのための経済力を小バカにしているフシがある。

逆張り、迎合などではない。

太田光が立つ場所というのはどんな場あってもあらかじめ決まっているのだ。

ここで危険を察知。

このくだりは何日でも書きつづけることができてしまう。

お笑い芸人としても、ひとりの人間としても大好きであるため書けば書くほどになってしまう。

その思いを伝えるのは今回の主題ではないので断腸の思いで次へ。

本題 - 統一教会に関する「爆笑問題・太田光」の発言および炎上に対し思うことを言語化する

まず、この炎上している案件に対するわたしの立場を僭越ながら申しあげたい。

太田光の発言について

  • 内容についてはまったく同意
  • ただし、言葉をあきらめてはいけないといいつつ、どうせ伝わらないと思っているフシについては同意しない

炎上している方々(以降、大衆とする)について

  • この感じの炎上はこの国の様式美とも言える伝統的所作なので否定しない。
  • ただし、多様な声に耳をかたむけることができる環境(ネット)があるにもかかわらず、いにしえの所作をくり返すことについては同意しない

両者に対して是と非がある。「八方美人」が私のスタンス。

個々について詳細を記す。

太田光に対する「是」について

これは、前述の「太田光が立とうとする場所」に記した通り。

今回の事件が起きてから、サンジャポできっと太田光は「信者たち」に目を向けるだろうと思っていた。太田光の多くのファンは予想どおりではないか。

末端の信者たちは、本人は真面目に信仰していると思われるが、社会的に見れば被害者であろう。

そして搾取され権限を持たない弱者であり、いまごろ教団バッシングの余波を毎日浴びせられているであろう被害者でもある。

予想以上にガッツリ深めに言及したのには驚いた。真意はわからない。だが彼のパートナーである光代社長が宗教に苦しんだ過去があったことも関係しているかもしれない。

起きたら消してしまうかもしれないつぶやき。私が宗教二世だったからかな。子供の時、育ての父が助けてくれて脱会したけど。今問題の教会ではないけど。親戚の中にも宗教の人いるから。だから全く関係ないアーリンが。私の犠牲になっているのかな。私は悲しいかな、宗教が嫌いな刹那な人です。

「是」とする理由、それはわたしも同じ思いだからだ。

今回の事件でわたしたちが行うべきは、いまの被害者を救うこと、未来の被害者を出さないようにすることが最重要と思う。

山上容疑者は、加害者の立場でもあるが教団による被害者でもある。

犯罪は裁きを受け罪を償わなければならない。

一方、被害者としては救済されなければならない。

安部元首相は、被害者の立場でもあるが教団に力を与えてしまった加害的立場としての疑いもある。

教団がいまでも問題を継続していることについては徹底的に解明し、もし関りがあったのであれば故人と言えど罪を償うべき対象だ。

一方、銃撃という理不尽な暴力に曝されてしまった被害者であり、亡くなってしまったが救済されるべき立場だ。

そして、現在の信者・元信者たちも同様である。

罪を犯していれば裁きを受けなければならないが、教団によるマインドコントロール、略取からは救済されるべき対象だ。

すべてはここを死守した上でのことではないか。

救うべき人を救うより悪を倒すことを優先しろというのはエゴを満たしたいだけの一人よがりに他ならない。

社会正義を言うならば、悪を倒すために救済は後回しは本末転倒である。

よって、この一点をブレずに掲げる太田光の発言について、わたしは賛同する。

太田光に対する「否」について

これは多分に憶測を含んでいるので、勝手に思って勝手にどうかと思っているだけかもしれない。

前述したが、太田光はその週の発言やその後の反響に関してラジオのオープニングトークの長い時間を利用して話すことがしばしばある。

だがこの件については「諦め」をその口ぶりから感じてしまう。

もともと「これだけが正しい」というような考えはしていない。割となんでも良いと思っていながらフザケて突っかかっていく印象だ。

正義マンが跋扈し、何を犠牲にしてでも正義は貫かれねばならないような世相に対し、引いていると言うか、諦めていると言うか、軽く絶望すらしているように感じている。勝手にだが。

民主主義が後退して久しい昨今。

じっくりお互いが落とし所を見つけられるまで、じっくり膝をつき合わせて話をする文化はとおのむかしに過ぎ去ってしまった。

いまは短い時間で場を支配すれば「論破」と称し、勝ちとなる。

多数決の勝負に勝てば、結果的に言うとおりになるんだからとすべき議論を避ける。

数の暴力、他の意見を封じる手法は、瞬間的な勝利に結びつきはする。しかし長期的にみると積み重ねすぎた禍根により滅び去ることを歴史は嫌というほど証明してきている。

その再現なきループを抜け出す手段として先人たちが発明したもののひとつが民主主義であろう。

いちおう、この国は民主主義を標榜する国家。民主主義とは、議論を尽くし、少数派が暗黙の受諾を容認する道を最後まで探り、最終的に決済するプロセスを経ることで、持続的な共同体を目指す手段である。

ネットで個々の声が可視化されやすくなった。結果、見えてきたのは反民主主義とおぼしき声、声、声である。

太田光は山下容疑者が選んだ手段、つまり暴力を前に、たとえどうあっても我々は言葉を諦めてはならないと言った。

彼は山下容疑者の悲しみや無念を痛いほど理解していると思う。

銃撃事件があったあと、息詰まり落ち込んでいる様子が三週にわたってラジオから漏れ伝わってきた。

考えに考え、苦しみに苦しみぬいた上で、それでも「言葉を諦めてはいけない」と発したのだ。

だが、それと同時に「言ったところで伝わらないのだろう」という諦めも感じてしまった。

ネットという拡声器でそれなりの人数が反民主主義的なふるまいを見せるなか、絶望してしまう気持ちは分からないでもない。

ただ、もっとも多い層というのは「わざわざみんなに聞こえるように話さない人たち」である。

それが可視化されることがない限りはまだ分からない。諦めてほしくはないと、勝手ながら思っているのだ。

「否」というよりは、願望のようになってしまった。

大衆に対する「是」

テレビの生放送という時間や使用可能な言葉など様々な制約が存在する場において、複雑な事象に対するコメントを的確に行うことは、大変な技術を要することである。

正直、太田光がもっとも不得意とするものと私は認識している。

連日の報道でわたしたちは「教団憎し」一色だ。

ましてやネットニュースで知る層などは日頃から彼への関心はそんなに無いだろう。

そこにあの断片的な説明は、可燃性の高いハイオク燃料をぶち込むことにほかならない。

燃えるべくして燃えることをしたのだから、みな燃やしたいだけ燃やせばいいと思う。

ただし、法といういラインは守らなければいけない。

大衆に対する「否」

わたしたち大衆はいつも間違える。

ひとたび大きな出来事があれば、本質に迫ることや、未来につながる話しは後まわしだ。

大切なことは退屈なのだ。

「議論」という文化を持たないわたしたちは、目まぐるしく流れゆく情報の消費にいそしんでいしまう。

わたしたちが「当事者不在」を好むのは周知のとおり。

結果、当事者はいつも蚊帳の外におかれてしまう。

今回のことで言えば、当事者は加害者である山上容疑者、被害者である安部元首相、そして動機である本来のターゲットである教団。

しかし最も多い頻度で報じられるのはどの政治家が教団と接点があったか。

鬼の首でも取ったかのように「今日はコイツがやっていたのが発覚しました!」とやっている。

山上容疑者にもっとフォーカスしていい。

同じ事件を起こしてはならないと思うのであれば、現役および元信者を徹底的に追いかけるほうがよいはずだ。

また、政教分離や信教の自由はなぜ重要なのかあらためて見直すとともに、それらが曖昧なこの国の制度について議論すべきよきタイミングではないか。

太田光は、いまもっとも味方が少なく、さまざまな声におびえ、声を上げる手段を持たない信者たち、とりわけ二世や巻き込まれた人たちの側に立って発言しているだけなのだ。

わたしたちが見過ごしてしまっている人たちだ。

現行法の問題や歴史的経緯を直視せず、ただただ教団をカルトや反社認定したいだけの人からすると、太田光は「敵側」となるのだろう。

カルトや反社を認定するのは並大抵なことではない。

どの団体までアウトなのか、どの行為までがアウトなのか、それは誰がどう決めるのか。

もし何の議論もせず、感情的な「気分」で決めてしまうと今度は別の犠牲を生むことになりかねない。

太田光と大衆

太田光は「大衆」というものを信用していないとわたしは思っている。

と同時に信じたいとも思っているのではないだろうか。

もう10年以上前だったか、媒体を忘れてしまったが、内容は太田光がある大物政治家と対談したことについてのもの。

有事だったか原発だったか、テーマもうろ覚えで申し訳ないが、一国の宰相として決断を迫られたとき、あなたはどうするかという質問を太田光が投げかけた。

そうすると、その政治家は「国民の声をよく聞いて判断する」と答えたそうだ。

太田光は、ガッカリしたと話していた。

憶測だが、彼ははこう思ったのではないか。

  • この国において、大衆はいつも間違える。
  • ときに政治家はみずからの政治生命と引き換えに決断を下すと言ってほしかった。

太田光は読書家である。SF好きはわりと知られていると思うが、何でも読む。歴史モノや近代政治などもよく知っている。

わたしも歴史モノ、近代史など好んで読む。

「この国では、大衆はいつも間違える」という点について共感する。

わたしたちはいつも間違えるのだ。

ふだん、お上に任せっきりにしておきながら何かあれば一気呵成に感情任せに非難をはじめる。

そして、幕府が政府になっても、帝国主義が民主主義になっても、変わり身の速さは一級品。さも以前からそうだったかのように振る舞う。

日頃から政治的なことに参加意識が無いから簡単に変わることが可能なのだ。

責任感のない、無責任だからこそ成せるすべである。

そんな無責任な大衆の声に従って、果たしてより良い方向へと歩んでいけるかといえばあやしい。

コトが起きたときだけ感情的に声を上げはじめるわたしたちはいつも間違えてしまうのだ。しかもゼロか百の思考しか持ち合わせていない。階調がない。

しかしフランスのようになればいいとも思わない。

こんな無責任なわたし達だからこそ、世界史に類を見ない江戸時代のような長期にわたって平和な時代を築き上げた実績もある。

だが無責任な国民性のもとでは声なき犠牲を避けられない。

教団憎しをゴリ押し、宗教は悪の世界に変わったとき、わたしたちは素知らぬ顔でニューワールドを生きるだろう。

その陰で置き去りにされてしまった人たちのことなど忘れて。

ネットで見える化が進んだ21世紀において、さすがに日常的無責任無関心自己責任な伝統文化はそろそろあらためるべき時なのではないか。

おわりに

言いたかったことは、太田光は教団や政治家の擁護者ではないしけっこういいやつなんだぜということと、大きな人災が起きたときわたしたちは胸に手をあてて考える習慣を身に着けようや、という話しだ。

テキストで飛び交うワードはたいてい煽り要素がマシマシである。

人は感情が動くと行動する。

人が動けば経済も動く。

いちばん動かすのにコストがかからないのが「怒」である。

だから、視聴率やPVや部数をさばきたい人たちは煽るのである。

個人でやってる場合はただの承認欲求モンスターか愉快犯。そっとしておいてあげるのが吉だ。

勢いまかせに書いたのでまとまり悪いし長くなってしまった。

太田光憎しの人はまずこんな文章を読まないだろうし、ここまでお付き合いいただけた方はかなり特異な方だと思う。(失礼)

人の孤独と孤独が互いに混じり合うことって無いのだろうかと思うといつも悲しくなる。だがすこしでも良くなるようにと希望は捨てたくない。

せめてもの抵抗としてこの投稿をネットの海へ投げ込むのだ。

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