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文鳥と暮らす ~「溺愛とは?」と思っていた時期が私にもありました【日記】

2023/06/18

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シナモン文鳥♂

まえがき

「文鳥」をご存知だろうか。

文鳥(ぶんちょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

精選版 日本国語大辞典 - 文鳥の用語解説 - 〘名〙 カエデチョウ科の小鳥。全長約一四センチメートルで、スズメ大。背面は青灰色で頭と尾は黒く、頬に大きな白斑があり、腹面は淡褐色。くちばしが太くて短く

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2017年4月から「シナモン文鳥」と暮らしている。

その当時、同居を始めたパートナーの連れ子である。

それまで「他者との関係を避けてなんぼ」だった私の人生は、その日を境に大きく変化した。

同居1年目の様子は下記に記録している。

文鳥と暮らす ~これまでの1年をふり返って【日記】 - neputa note

現在の暮らしが始まってから、約1年が経過した。人間2名(わたしともう1名、以降「同居人」と呼ぶ)のほか、小鳥、カエル、カブトムシの幼虫など、多様なメンバーによる共同生活だ。これまで鉢植え1つ部屋に

読み返してみると何ともぎこちない。

あれから毎日のように世話をし、声をかけ、共に過ごしてきた。

早いもので今年で6年目。

前回の記録からのその後を備忘録として記す。

本編

文鳥は変わらない

文鳥のご機嫌はまるで秋の空もよう。コロコロと変化する。

文鳥の怒りは激しい。

ピリリリリィーッと叫び、目の前にある私の親指を噛みちぎらんばかりにつつく。

自分で動かしたおもちゃの揺れに怒りだすことだってある。

野生の片りんを感じる瞬間だ。

一方、手のひらにふわふわとした体を丸め、ぐーぐーと眠りこける。

頭の羽をぐしゃぐしゃにしても起きやしない。

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羽根ぐっちゃぐっちゃ

野生とは一体?

文鳥は「怒り」と「喜び」をシンプルに表現する。

その二つの感情は、ホモ・サピエンスのそれとはちがった印象をうける。

生涯わすれないほどの怒りではない。一生の恩を感じるほどの喜びでもない。

「ピュアな感情」、と私は解釈している。

感情はコロコロ変化するが、その態様は初対面のころから一貫して変わることがない。

我が家で最小の個体でありながら、もっとも大きな存在感を放っている。

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小さなあくびの瞬間

私は変わった

いっぽうで私自身をふり返ってみると、さまざまな変化が見られる。

生活の行動変容

まず「生活音」と「振動」を、つよく意識するようになった。

ホモ・サピエンスが発するそれは、文鳥にとって巨人の襲来にひとしい。

安心して暮らしてほしい。その思いから、おのずと家のどこにいるときも、ちいさな家族の存在を意識するようになった。

「他者との関係はわずらわしさと表裏一体」、それが私の真理だった。

だが、他者とのかかわりから生じたこの変化。意外にも私はよろこびを感じている。

新たなコミュニケーション方法を習得

コミュニケーションとは「言語による意味の交換」。それ以外を私は知らない。

言語を介さない文鳥とのこれは一体なんであるか?

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文鳥は読書家

私は文鳥が好きなこと、嫌いなことを分かっている。気がする。

そして文鳥もまた私を把握しているフシがある。

私たちは言葉を交わし互いに意味を交換し合うことはない。

文鳥はケージの中から遊ぼうという気配を飛ばしてくる。

私はそれを受け止めケージの扉を開ける。

文鳥はケージの中からいきおいよく私の手のひらに飛びこんでくる。

そのやわらかい羽毛にほおずりし、あたまの上を、私の鼻先で撫でつける。

途中でやめると、「やめるな、続けて!」、チピピピッ、と声をあげる。

私たちは言葉を交わす。正確には音を交換し合っている。

文鳥「チピっチピっ」、私「はいはいチピチピ」

意味を送りあっているわけではない。

あるとすれば、お互いを認識し、気にかけていることを伝えあっているのだろう。

満足した気配を感じ、手のひらをほどくと辺りをちょこちょこ散歩しだす。

不思議なことだがケージに戻りたいタイミングも分かる。

手のひらを差し出すとちょこんと乗っかる。

ケージの扉まで運んでやるとトンットンットンッと帰っていく。

休みの日はこれを何度かくりかえす。

何気ないことではある。

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吾輩はクマである

かつてコミュニケーションに、このようなカタチがあることを私は知らなかった。

まぎれもなく文鳥と私は多くを伝えあっている。そして、それはとっても心地がよい。

境界の溶解と溺愛の芽生え

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とにかく狭いところを好む

私と他者、他者と私。その間には決して破ることのできない境界線がある。

それは、誰もが等しく孤独であることを示す象徴のようなものだ。

いつだってATフィールドは私たちの周囲に展開している。

だが文鳥との関わりのなかで、この境界線に異変が起こった。

いつしか境界線の存在を忘れてしまっていた。

これまで、誰にだって何にだって必ずあったはずのそれが、姿を消していた。

文鳥と日々を過ごすあいだに、いつのまにか溶けてなくなっていた。

シンジ君がエヴァとともに越えていった壁を、私は文鳥とともに飛び越えていったのだ。

喪失への恐怖

手放しで他者を溺愛するような心境とはいかなるものか?

ホモ・サピエンス七不思議のひとつ「溺愛」。その謎の感情を、いまの私は理解できる。

痛いほど分かってしまっている。

朝起床することは「文鳥に会う」を意味する。

普段の生活において帰宅もまた「文鳥に会う」を意味する。

覚醒している間、常に意識のどこかに文鳥がいる。

文鳥との暮らしからこれまでに2度、1泊2日の旅行をした。

しかし、家を出て駅に向かう途中でもう帰りたくなってしまった。

文鳥と離れて過ごすには、1泊2日はあまりに永遠すぎるのだ。

溺愛の副作用は喪失への恐怖。

平均寿命はホモ・サピエンスが文鳥を上回る。

とはいえ私が先に逝く可能性だってある。明日事故に遭うかもしれない。

つまりどちらが先かは問題ではない。

死別が、不可避の現実が、この先の未来にある。それが耐え難い。

日常のふとした瞬間、この事実に襲われることがある。

公共の場だろうと何処であろうと膝から崩れ落ちそうになる。

時間が一方向にしか進まないこと、それがこれほど苦しいとは。

この苦しさの裏返しなのだろう。

手のひらのなかで羽毛越しに感じる命がたまらなく愛おしい。

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この瞬間のために生きる

おわりに

今日もいつもと変わらぬコミュニケーションを文鳥と交わして過ごす。

他者と関係を構築することは不可能なものと半ばあきらめていた。

そんな私に、文鳥は多くをもたらしてくれた。

ホモ・サピエンスであるパートナーとの関係性が破綻することなく今日まで続いてこれたのも、ひとえに文鳥のおかげといっても過言ではない。

理性のみでものごとを捉えようとするおろかな私は、文鳥とのかかわりによって「あるがまま」という概念を知ることができた。

どちらかの命が尽きるその瞬間まで、共に過ごすこの時間を大切にしたい。

ちなみに文鳥の名前は「ティピ」、私の大切な友人であり家族だ。

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大切な家族ティピ

あとがき

文鳥に関するエピソードとして、今年とてもうれしい出来事があった。

Twitterでクリエイターの方とご縁があり、好きなお題で楽曲を作っていただく機会に恵まれた。

お題はもちろん「文鳥」。

文鳥は決してメジャーではない。ゆえに大変なご苦労をおかけしてしまったと思う。

だがこれ以上ないほどの曲を書いてくださった。

Simizyさんによる「Lovery Java Sparrow(愛しのシナモン文鳥)」という曲、ぜひ多くの人、そして文鳥たちに聴いてほしい。

Simizy · Lovery Java Sparrow(愛しのシナモン文鳥)


また、もし我が家の文鳥をもっと見たいという方がいらしたら、Instagramにちょこちょこ写真を載せているので見てやってほしい。

neputa(@h_neputa) | Instagram


長々と書いてしまったが、前回につづき、文鳥との暮らしを書いてみた。

当初の動機となったのは、クレア・キップスの『ある小さなスズメの記録』という著作を読んだこと。

『ある小さなスズメの記録』 クレア・キップス 【読書感想・あらすじ】 - neputa note

あらすじ 第二次世界大戦下のイギリス。夫に先立たれた一人の老ピアニストが出会ったのは、一羽の傷ついた小雀だった。愛情深く育てられたスズメのクラレンスは、敵機の襲来に怯える人々の希望の灯となっていく―

blog card

著者とスズメ、種を越えた関係性がつづられた美しい記録である。

読んだ当初、実際にそれがどういうことか想像もつかなかった。

今ならわかる。そして記録を残しておくべきと強く思っている。

お互いが元気である間にまたこの続きを書きたい。

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