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これは歯ブラシです。【日記】

初稿:

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最近の思考メモ

朝の情報番組で「歯ブラシ」の特集をしていた。そのなかで「全自動歯ブラシ」なるものが紹介された。大学のロボット研究をする学部が開発したものらしい。マウスピースのようなオブジェクトを口の中にくわえると、内部にある複数のブラシが一斉に口内を磨きだす。AIで学習した大量の口内データが、形状、磨き具合に反映されているらしい。

「今日は疲れたから適当に磨いちゃえばいいや」そんな不安定な私たちとは一線を画すパーフェクト歯ブラシ。

ここから私の自問自答が始まった。まず、技術力や注がれたエネルギーへの感嘆の気持ちが湧く。次に浮かんだのは「誰が使う?」「すごいけど必要なものか?」次の場面で私が浅はかであることを私は確信する。

筋ジストロフィー患者の青年が、この全自動歯ブラシのお陰で家族やヘルパーへの負い目やストレスから解放された、と語っていた。

私は幸いにも手や腕に障害を持たない。お気に入りの歯ブラシを買うことが可能な状況にある。好きな歯ブラシで、好きなタイミングで、磨き心地よい強度で歯を磨く。私はたまたまそうなだけであって、 それは、あたりまえのことじゃない。このような自問自答はひんぱんに起こり、そのたび、アメリカの作家デヴィッド・フォスター・ウォレスの「これは水です」を思い出す。

これは水です。 | quipped

This is Water by David Foster Wallace (Full Transcript and Audio)

これは2005年にケニオン大学で行われたウォレスのスピーチ。

今回のようなとき、「自動的に確信してしまいがちな」無意識の思考を、意識的に訂正ないし修正する作業を行う。そして、もう一度あの全自動歯ブラシについて考える。そこにあるのに私には見えなかった・気づけなかったことを。

awareness of what is so real and essential, so hidden in plain sight all around us, all the time, that we have to keep reminding ourselves over and over:
“This is water.”
“This is water.”


非常に現実的で本質的なものは、私たちの周りの目に見えないところに常に隠されているため、私たちは何度も自分自身に思い出させ続けなければならないことに気づきます。


「これは水です。」


「これは水です。」 https://fs.blogより引用

「This is water」は、視覚情報と自動的な確信がもたらす過ちに気づかせてくれる言葉になっている。

ウォレスは2008年に自死により亡くなってしまった。上記リンクは訳された方と全文文字起こしをされた方のブログ。ボリュームはあるがとても素晴らしいのでぜひ。


ウォレスが「自動的に確信してしまいがち」と表現した、つまりバイアスみたいなものは何かといつも考える。今も考えている。いま読んでいるベンジャミン・リベット著『マインド・タイム - 岩波書店』の内容が頭に浮かぶ。リベットの実験では、私たちが自覚的(意識的)に行動を起こす500ミリ秒前に脳波が準備電位を示したことを報告している。無意識層の反応は意識層より早い。

車の運転中に子どもが飛び出してきたので急ブレーキを踏み車を停止させた。この場合、私は「子どもに気づき、咄嗟にブレーキを踏んだ」と知覚する。だが実際は、「子どもが飛び出す → ブレーキを踏む → 子どもに気づく」が正解。ブレーキを踏んだのは無意識層の反応によるもの、私つまり意識層が子どもに気づくのはそのあとだ。さらに私たちの脳は、意識を500ミリ秒前に逆行させる。あたかも私自身が子どもに気づきブレーキを踏んだかのように。

私は自由意志に基づいて行動している。私だけではなく多くの人がそう思っているはずだ。だがそうではないことを示す実験が存在する。そして私たち(意識層)にできることは、無意識層の反応をキャンセルすることだけだという。サボろうとする自分をキャンセルする、頑張りすぎる自分をキャンセルする等々。

にわかに信じがたい話しだが「自動的に確信してしまいがち」なのは無意識層の自分、私はそいつをキャンセルという限られた武器で戦っていたのか、と大いに納得してしまった。変な話だが救われたような思いすらある。

自動的な確信とは、遺伝と経験則なのだろうと思う。遺伝的な思考の傾向はありそうだし、経験と相まって自動的な確信を強固にしている気がする。経験則をすぐ次の行動に反映する能力は、かつて人類がサバイブするために大いに役立ったのだろうと想像する。だが意識層が思考し社会を形成する現代において、その能力はバイアスという名のバグみたいなものかもしれない。この辺りは近いうちに書籍で深掘りしたい。

一方で、私たちは無意識層の能力を大いに頼っている。ピアノで複雑な旋律を奏でたり、階段から落ちそうな人を咄嗟にささえたり、これらは無意識の反応がなせる業。いちいち意識しながらやるとうまく行かない。

考えてみれば「私」は、後からやってきて我がもの顔する嫌なヤツ。脳という臓器がいまより小さく意識が脳内に誕生する以前、私たちの祖先は激しい自然界の戦いを生き抜いてきたのだ。現代の他の生物のように。それが、私は私を私だと思っている。

ピアノの練習をサボろうとする私をキャンセルし、助けが必要な人に手を差し伸べるのを躊躇する自分をキャンセルし、やがて誰かを感動させたり命を救ったりできる。無意識と意識は補完関係だと思うと気持ちが楽になる。

思いたくないのに思ってしまう、したくないのにしてしまうことが、ずっとストレスだった。最近は以前よりストレスが緩和した。自分は「馬と乗る人」だとイメージすることでストレスを相対化できた気がする。馬が無意識の自分、馬に乗っているのが意識の自分。

リベットの本を読み終えたらまた考えをまとめたい。あと「普通」や「常識」という言葉を使わない。これは、無意識の私に言っている。さもなくば、ふたたび全自動歯ブラシを見誤る。

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