『水神』 帚木蓬生 ~江戸時代の真の主役「農民」を描いた大河小説~【読書感想・あらすじ】

2018/03/12

目次 [隠す]

記事画像
記事画像

あらすじ

目の前を悠然と流れる筑後川。だが台地に住む百姓にその恵みは届かず、人力で愚直に汲み続けるしかない。助左衛門は歳月をかけて地形を足で確かめながら、この大河を堰止め、稲田の渇水に苦しむ村に水を分配する大工事を構想した。その案に、類似した事情を抱える四ヵ村の庄屋たちも同心する。彼ら五庄屋の悲願は、久留米藩と周囲の村々に容れられるのか――。新田次郎文学賞受賞作。
――本書より引用

読書感想

読みどころ

  • 江戸時代初頭の農村を舞台に、渇水に苦しむ百姓たちが村に水を引き込む大事業を成し遂げる歴史ドラマ作品。
  • 福岡出身の著者が地元に伝わる話をもとに紡ぎ上げた作品であり、美しい自然や力強く生きる人びとの描写には地元に対する著者の大きな愛を感じる。
  • 400年前にこの国で暮らしていた先人たちから「生きるとはどういうことか」を教えられる、学びの多い作品。

歴史小説とは?

便利で快適な現代の暮らしは突然降って湧いてきたものではない。すべては先人たちが積み上げてきた英知の上に成り立っている。

この作品は江戸時代初頭、河に堰をつくり村中に水を引き込んだ村人たちのドラマを描いている。そこには美しくも厳しい自然の姿や、力強く生きる農村の人びとの姿がある。

「歴史小説」と言えば、大名や侍がワチャワチャするものというイメージがあった。しかしかつてこの国の大部分を占め、国を支えていたのは百姓である。であれば百姓を書かずして何が歴史小説か、百姓を全面に押し出してこそ「真の歴史小説」ではないか。

そういった意味で、この作品は「真の歴史小説」と言えよう。

物語の概要と登場人物

江戸時代初頭、久留米藩の江南原(えなみばる)という村の物語である。筑後川という大河が目の前を流れるにもかかわらず、台地に位置するため村人たちは稲田の渇水に苦しんでいた。顔を洗う洗濯をするのは河まで行けば済む話だが、稲を育てるとなると大量の水が必要となる。

この時代は村ごとに納める年貢米が決まっており、足りなければ他村から借り利息を付けて返さなければならない。そして自分たちは食べるものがなく、常に腹が減っており、「口減らし」のような悲しい出来事も頻繁にあったようだ。

江南原では「打桶」という人力によって水田に水を流し込んでいた。

両端に長い綱のついた木桶を土手の上から川面に投げ落として、二人して引っ張り上げ、土手の反対側に流すというものです
打桶を受け持った百姓は、それば一生続けるらしかです

しかし人力では限界がある。こんなやり方は自分の代で終わらせなければ、と立ち上がった男がいた。筑後川に堰を作り、村中に水を引き込もう。途方もない話のようだが、この夢に向かってみんなが動き出す。

主な登場人物は以下の通り。

  • 山下助左衛門…筑後川に堰を作る計画を構想した発起人。元助たちの村の庄屋。
  • 本松平右衛門…五庄屋のひとり。
  • 猪山作之丞……五庄屋のひとり。
  • 重富平左衛門…五庄屋のひとり。
  • 栗林次兵衛……五庄屋のひとり。助左衛門の娘の旦那。
  • 田代又左衛門…五庄屋の上の立場となる大庄屋。
  • 菊竹源三衛門…侍の立場でありながら筑後川の計画のために命をかける。
  • 元助…打桶を担う百姓。右足に障害を持つが泳ぎが得意。
  • 伊八…元助の先輩。打桶40年のベテラン。
  • 長吉…助左衛門の元で下働きをする。牛のツチとは以心伝心。
  • さき…元助と恋の予感...。
  • 権……元助になつくワンコ。登場するたびに和む。
  • ツチ…筑後川の堰の要となる大岩を運びあげる。魅せる農耕牛。

水の重要性、郷土史としての一面

「オイッサ、エットナ」という元助と伊八の掛け声は、物語の至るところで登場する。土手の上で、来る日も河から水をすくい上げる彼らの姿はこの作品の象徴でもある。

打桶ー筑後市郷土資料館

今の時代、水は蛇口をひねればいくらでも出てくるが、この時代における水の苦労というのは計り知れないものがある。

どんなに草を刈り込んで入れ、、厩肥と下肥を施しても、肝心な水が足りなければ功を奏さない。水が、百姓が注いだ全ての労力に、命を吹き込むといってよかった。

この作品は、当時の人びとが自然をいかに活用し暮らしていたか、どのような制度のもと社会が形作られていたか、物語を読み進めながら自然に理解できるように構成されている。優れた郷土史としての一面でもある。

物語のハイライト

助左衛門を中心とした五庄屋の嘆願書が奉行に受け入れられる場面、反目していた村々が共に工事に励むようになる場面、ついに村へ水がやってくる場面など、数多くの胸が熱くなる場面がてんこ盛りの本作であるが、個人的な一番のハイライトは文庫版で20ページにもなる菊竹源三衛門による嘆願書だ。この魂の嘆願書で私の涙腺は決壊した。

読んでいるとよく分かるが、この時代における身分間の距離というのはかなり遠く、百姓と奉行では天地の開きがあるように感じられる。ネタバレるので経緯と内容は割愛するが、このような背景のなか、源三衛門という男は身分を超えた、一人の人間としての生き様を見せてくれる。彼こそが「水神」なのだ。

帚木作品のススメ

歴史の教科書などにはまず登場しない名もなき人びとに光を当て、鮮やかに作品として浮かび上がらせる著者の力量に感服する。同著者の作品では「国銅」も、奈良時代の銅を扱う末端の職人に焦点を当てた素晴らしい作品だ。


また著者は現役の精神科医でもあり医療にまつわる作品も多く書いている。いずれの作品でも共通しているのは、著者によるすべての人間に対するやさしい眼差しである。

個人的に帚木氏は現代作家の中で最も好きな作家であり、ひとりでも多くの人に彼の作品との出会いがあればいいなと、ひそかに願っていたりする。

今回もまた、彼の優しく美しい文章に心が癒やされた。

著者について

帚木蓬生 Hahakigi Hosei
1947(昭和22)年、福岡県生れ。東京大学仏文科卒業後、TBSに勤務。2年で退職し、九州大学医学部に学び、現在は精神科医。'93(平成5)年『三たびの海峡』で吉川英治文学新人賞を受賞。'95年『閉鎖病棟』で山本周五郎賞、'97年『逃亡』で柴田錬三郎賞、2010年『水神』で新田次郎文学賞を受賞した。'11年『ソルハ』で小学館児童出版文化賞を受賞する。他に『臓器農場』『ヒトラーの防具』『安楽病棟』『国銅』『空山』『アフリカの蹄』『エンブリオ』『千日紅の恋人』『受名』『聖杯の暗号』『インターセックス』『風化病棟』『水神』『蝿の帝国』『蛍の航跡』など著作多数。
――本書より引用

「帚木蓬生」作品の記事

『閉鎖病棟』 帚木蓬生 ~二度に渡り映画化された名作~ 【読書感想・あらすじ】 | neputa note

あらすじ とある精神科病棟。重い過去を引きずり、家族や世間から疎まれ遠ざけられながらも、明るく生きようとする患者たち。その日常を破ったのは、ある殺人事件 だった……。彼を犯行へと駆り立てたものは何か?

blog card

『逃亡』 帚木蓬生 ~戦後、帰国を懸けた男の壮絶な逃亡劇~ 【読書感想・あらすじ】 | neputa note

あらすじ 時は太平洋戦争の終わろうとする時期。香港で諜報活動に従事していた主人公の守田征二は、幼少から教え込まれた価値観、仕事への責任感から懸命に働いた。しかし、敗戦と同時に敵国の者たちに追われ、帰国

blog card

『インターセックス』 帚木蓬生 ~多様な性について言及した2008年出版作~【読書感想・あらすじ】 | neputa note

あらすじ 「神の手」と評判の若き院長、岸川に請われてサンビーチ病院に転勤した秋野翔子。そこでは性同一障害者への性転換手術や、性染色体の異常で性器が男でも女でもない、“インターセックス”と呼ばれる人たち

blog card

『三たびの海峡』 帚木蓬生 ~時代と運命に翻弄された壮絶な人生を描く~【読書感想・あらすじ】 | neputa note

あらすじ 韓国・釜山で三店のスーパーマーケットを経営する実業家、河時根(ハーシグン。彼は三たび、日本と韓国を隔てる海峡を渡る。一度目は、太平洋戦争末期の十七歳の時、日本にある炭鉱の労働力として強制的に

blog card

【読書感想】 十二年目の映像 帚木蓬生 | neputa note

あらすじ その映像は、開けてはならないパンドラの箱だった!? 大手放送局に勤務する川原庸次は、かつて学生運動に参加していたという上司からT大時計台闘争にまつわるスクープ映像の存在を聞かされる。初めは半

blog card

「歴史」関連の読書感想記事

『最後の将軍』 司馬遼太郎 【読書感想・あらすじ】 | neputa note

あらすじ 黒船来航により家康から代々続いた徳川江戸幕府は危機へと陥る。激動の時代に十五代将軍となった「徳川慶喜」。家康以来と評された将軍は大きな時代の流れをいかに生きたか。江戸幕府最後の将軍の一

blog card

『天平の甍』 井上靖 【読書感想・あらすじ】 | neputa note

あらすじ 時は奈良時代・天平の世。近代国家成立を急ぐ朝廷は、先進国「唐」から多くを吸収するため、総員五百八十余名の第九次「遣唐使」を派遣する。そこには留学僧として渡唐し、二十年の年月を経て高僧「鑑真」

blog card

『あかね空』 山本一力 【読書感想・あらすじ】 | neputa note

あかね空 (山本一力) のあらすじと感想。希望を胸に身一つで上方から江戸へ下った豆腐職人の永吉。己の技量一筋に生きる永吉を支えるおふみ。やがて夫婦となった二人は、京と江戸との味覚の違いに悩みながらも

blog card