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『神の火』高村薫【あらすじ・感想】

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あらすじ

原発技術者だったかつて、極秘情報をソヴィエトに流していた島田。謀略の日々に決別し、全てを捨て平穏な日々を選んだ彼は、己をスパイに仕立てた男と再会した時から、幼馴染の日野と共に、謎に包まれた原発襲撃プラン〈トロイ計画〉を巡る、苛烈な諜報戦に巻き込まれることになった……。国際政治の激流に翻弄される男達の熱いドラマ。全面改稿、加筆400枚による文庫化! — 本書より引用

読書感想

読みどころ

  • 90年代の冷戦末期、原子力発電所を巡る諜報ミステリをベースに、男達の愛と魂の救済を描いた長編作。
  • 20世紀半ばに誕生し21世紀の今は縮小・廃絶が叫ばれる原子力技術とは何であるか?時代の転換期に大きな命題に迫ったその内容は、21世紀に入った今こそ振り返る価値は大きい。
  • 緻密な描写と美しい感情描写、ラストは行間に火花がほとばしる勢いを感じる。

再読のキッカケ

東日本大震災から7年が経過した。3月に入ってから、愛用している「読書メーター」のタイムラインから震災にまつわる本が読まれている様子が伝わってきた。その中の「神の火」の感想がふと目に止まる。

はじめてこの作品を読んだのはまだ学生のころだった。当時の私には、登場人物たちの苦悩やカッコよさに酔いしれ、「スパイ」という言葉の響きにそら恐ろしさを感じる程度の感想しか抱いていなかったように思う。そして先ほどの読書メーターをきっかけに「そういえば原発の話だったな」と、かなり長い期間を経て気がづいた次第。

本作は1991年に発表されており、物語も今のロシアがソヴィエト連邦だった冷戦末期の時代を描いている。

当時は原発の恩恵やリスクなどほとんど理解していなかった。ましてや、自分が暮らしている国が、原発の廃炉という大きな問題を抱えるに至るなどまったく想像だにしなかった。

今こそ読み返すことの意義は大きいと思った。

登場人物

  • 島田浩二…海外の研究論文を取り扱う中小企業で働く40間近の男。かつて博士号を持つ原発研究者でありソヴィエトに情報を流すスパイだった。
  • 江口彰彦…島田をスパイに育て上げ諜報の世界へと導いた男。オペラを口ずさむ生粋のダンディ。
  • 日野草介…島田の幼馴染。大阪でヤクザまがいの人生を送りつつ、国家間の闇に巻き込まれていく。
  • 柳瀬裕司…日野に原子力や革命の話を教えた。日野の友人だったが政治に巻き込まれ命を落とす。
  • 柳瀬律子…祐司の妹。学生運動を行っていたころに日野と知り合い、後に妻となる。しかし気が付けば北朝鮮のスパイとなり人格を失う。
  • 高塚良……日野の世話になっている青年。チェルノブイリで死の灰を浴び病となる。

「自分が盗んだ火は自分で消し、神に返すのだ」

これは島田が父の葬儀のため故郷の舞鶴に帰郷したあと、思いがけず自身の過去と向き合ういくつかの再会を果たした後に思い浮かべたこと。

火というのは原発の原子炉の熱、神に返すというのはつまり原子力技術の否定だ。この作品の根底にはこの思想があり、このセリフに基づくストーリーがそのまま本作品の大一番のハイライトとなる。

(高村作品で「炉」というと『照柿』を思い出す)

あえて言うならば「BL」

島田と良、日野と島田のあいだにある関係性はなんと言えばよいのだろうか。著者は他作においても性別を無視した感情の成り行きを描いている。あまりにも自然であり、あとから「あれっ?」となる。

造船会社の社長夫人である母がロシア人宣教師とのあいだで犯した過ちにより生れた、青い瞳を持つ島田。幼い頃からその美しい瞳に見惚れ、「目玉2つ」と叫び、それらは自分のものだと主張する日野。最後の最後、惜しむようにそれぞれの結末へと散っていく二人の間にあったものは何か?

チェルノブイリで被爆し、世界一安全な日本の原子炉を見たい一心で諜報の世界に巻き込まれた良。自身の存在のために良を拉致され苦悶する島田。島田が良へ書き送った手紙を引用する。

君の顔がぼくの頭から消える日はない。君に会えるという思いがゆらぐ日もない。
君に会えたら、ぼくは原子力の話をしよう。
ぼくは必ず君を迎えに行くから、君はそのとき、ぼくにこの小説の話をしてくれ。 君のことを考えたら、ぼくは眠れなくなる。

この手紙から滲み出る狂おしいまでの感情は何か?

いずれも「愛」だ、と私は思った。しかも限りなく性愛に近い「愛」だ。

当時はまだ存在しなかったであろう言葉だが、「BL」という言葉が彼らを許容してくれるのならば、この作品には「BL小説としての要素を含むよ!」、と敬意を込めて記したい。

この二組それぞれの間に流れる感情のもつれは美しいのだ。

魂の救済の物語

本作が通り一変の諜報ミステリと一線を隠す要素はこれだろう。

日野が言う「大きな穴」というキーワードはたびたび登場する。島田、日野、良、江口、ボリスやハロルドたちも含め、国際社会の裏側で生きる彼らの心にはその大きな穴が空いているという話。

良はその穴に対し人間としての尊厳を失うことが無かった。日野に原子力の話を聞かせた柳瀬裕司もそうだったかもしれない。

俺が柳瀬に借りたんは、小さい希望一つや。人間には理想というものがある。人間は、理想を持つことのの出来る動物や、という希望一つ……

この俺は、良から、人間は献身ということが出来るという希望一つを貰ったのだ。

しかし、その世界で人間らしさを残すものは命を落としてしまう。良が助からなかったことは悔しく、そして悲しくてならない。が、島田が自身の穴を埋める覚悟を持つために避けられない伏線だったのだろう。

島田の開発した最新技術が組み込まれた「音海原子力発電所(高浜原発がモデル?)」は、良が見たかったが叶わなかった場所でもある。盗んだ火を神のもとに返す。原発の安全神話を破壊する計画を経て、島田は自身の穴を埋め、過去への償いを果たそうとする。

テロはいかなる理由があろうと決して称賛されるものではない。してはならない。それこそ脊髄反射的に否定しなければならないものだと思っている。だが、島田と日野が行った一連のテロを「この上なく美しい」と感じたことを正直に記しておく。

何日か後、音海侵入を果たしてもう一度ここへ辿り着くとき、人間を待たずに経っていく時間と別れて宇宙の塵にかえり、この風と一つになれたらいい。

計画の最中、島田はこんな思いを過ぎらせる。これは描かれていないその後への伏線、つまり彼は神の火が消えると共に、その生命の火をも消すことを暗示しているかのようだ。

江口に導かれ暗躍した島田、友人と妻を失った日野、そしてチェルノブイリの灰に焼かれた体をひきずり、「超安全」と言われる日本の原発を目指した良。核の時代の荒波に翻弄された彼らの魂は、音海の原発の沈黙によって救われたのだろうか。

その他メモ

聖書に馴染みがなく、祈りの言葉に感動することなく生きてきた人生だった。

今回、真夜中の日本海上で慌ただしく逼迫した中、良の死を知り一気に押し寄せる感情の渦の中で咄嗟に島田が唱えた祈りに私は涙した。

父よ、憐れんで下さい。あなたのつかわされたひとり子が、どうか、すべての重荷から解き放たれて、御国に迎え入れられますように。主キリストによって、永遠の希望を受けることが出来ますように。父よ、父よ……。

いかに自分の人生がぬるかったか、つまり咄嗟に祈ってしまうほど苦難に直面したことは無かったと知った。祈りの言葉は温かい部屋で踏ん反り返って「読む」ものではなく、きっと声を震わせながら、ドモったり、上ずったりするような状況のなか、必死に唱えるものなのだろう。

島田は、ほんとうに、ほんとうに、ほんとうにせめて天国で良の魂が救われることを祈ったのだ。凍える海の上で、彼を救い出すためだけに過ごしてきた日々の果てに訪れた無念を前にしての祈りの言葉だ。

著者について

高村薫 Takamura Kaoru
1953(昭和28)年、大阪市生れ。国際基督教大学卒。外資系商社勤務を経て’90年『黄金を抱いて翔べ』で日本推理サスペンス大賞を受賞。‘93年『リヴィエラを撃て』で日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会賞を受賞、また同年『マークスの山』で直木賞を受賞。‘98年には『レディ・ジョーカー』で毎日出版文化賞を受賞した。他の著作に『わが手に拳銃を』『地を這う虫』『照柿』などがある。 — 本書より引用

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